2010年7月13日火曜日

『隼人世界の島々(「海と列島文化」第5巻)』

●大林太良ほか[著] ●小学館 ●6311円(税別)

本書にて扱われる地域は九州南部の日向・大隈(宮崎県)、薩摩(鹿児島県)、そして、薩南諸島の島々――甑島、種子島、屋久島、トカラ列島の口之島、臥蛇島、宝島等までで、奄美大島以南は含まれない。

■西海大海島帯

本題にあるとおり、列島の神話時代、同地域は隼人(=クマソ)の勢力圏にあって、後代、大和朝廷勢力が、同勢力を服属させたことになっている。しかしながら、日本神話においては日向こそが大和朝廷勢力の本貫(籍)であったことがうかがえる。また、いくつかの神話の意味するものは、日向に起った一部族(=後に大和朝廷勢力に成長)が、九州南部の先住的勢力と合体し、東征して大和に入った、もしくは、先住勢力の支援を受け、大和へ勢力を伸張させた、と推測されている。

九州南部の先住勢力は、「西海大海島帯」と呼ばれる圏域に属していて、南から、台湾~琉球諸島~南西諸島~奄美諸島~トカラ列島~大隈諸島~甑島~大隈半島~五島列島~壱岐~対馬を経て、朝鮮半島南部に至る島と半島で構成される。その距離は、本州南部から北部までに相当する。隼人=クマソは、「西海大海島帯」に発達した南方海洋起源の勢力の北部住民の別称であろうか。ちなみに、大和朝廷勢力は、この勢力のことを征服前は「クマソ」と、また、征服後は「隼人」と呼んだ。

■種子島に伝わる赤米と踏耕(ホイトウ)

日本列島の水田から姿を消した赤米が、「西海大海島帯」の種子島の宝満神社と、もう一箇所、対馬の多久頭魂神社において、いまなお、栽培され続けている。赤米は、アジア各地で栽培されている「インディカ」、また、日本で一般的な「ジャポニカ」とは種を異にし、「ジャパニカ」に近いとされる。「ジャパニカ」は、その名のとおり、中部ジャワ、さらに東方のインドネシア島嶼域にかけて分布する「ブル」の仲間である。赤米は、ラオス(ビエンチャン)北東部、インド東北部アッサム地方に分布する陸稲兼用種にも近いという。

このことから、種子島に伝えられた赤米が、インド東北部、東南アジアもしくはインドネシアを起源とする種類の稲であり、前出の「西海大海島帯」を北上して、日本にもたらされた可能性を否定できない。「稲の道」の1つ、南方ルートである。

種子島には明治時代まで、踏耕(ホイトウ)と呼ばれる農耕技術が残されていた。「ホイトウ」とは一般には、踏耕(とうこう)、蹄耕(ていこう)といい、何頭かの馬または牛を水を入れた田に追い込んで踏ませ、水田の土を柔らかくし、また床締めをする作業のこと。東南アジアの観光写真等ではおなじみの風景だが、こうした技術が南方を起源として、日本列島にもたらされたと考えるほうが自然である。

ブルの米と踏耕(ホイトウ)は、西はマダガスカルからスリランカ、タイ、マレー、インドネシア島嶼地域、フィリピン、そして「西海大海島帯」(前出のとおり日本では琉球諸島から奄美、トカラ、九州南部を経て日本列島を北上)につながっている。その風景を、マレー・ポリネシア語族の生活空間としてくくり、「オーストロネシア的稲作」と呼ぶ。

■薩南諸島の仮面文化

薩南諸島の仮面文化としては、甑島南部の「トシドン」、トカラ列島・悪石島の「ボゼ」種子島の「トシトイドン」、屋久島の「トシノカンサマ」、三島・竹島の「タカメン」「カズラメン」硫黄島の「メンドン」などがよく知られている。いずれも異形の仮面の来訪神で、長い鼻をもち、蓑で体を覆っている。これらの仮面のデザイン上のルーツについてはよく、分かっていない。また、南九州の海沿い各地には、草被り神、竜神信仰=綱引きが盛んである。

■大和と琉球の境界という概念は危険

本書が扱う圏域を「大和文化圏」、その南側、すなわち、奄美諸島以南を「琉球文化圏」とする認識は、正確ではない。日本列島に特徴的な文化の基層に「西海大海島帯」の文化があり、そこから後年、「大和文化圏」と「琉球文化圏」に分離、発展した時代が続いたまでである。その結果として、奄美諸島以南は琉球的発展を示し、トカラ列島以北は大和的発展をみせた。そのため、トカラ列島、奄美諸島には、双方の融合が見られることもあるし、島内のある地域は大和的であったり、琉球的であったりすることもあり得た。

日本神話(記紀等)にある南方的・海洋的要素を読み解く努力が必要である。