2010年7月9日金曜日

オレンジ軍団は敗北する

(1)決勝の予想はタコに聞け

W杯はいよいよ決勝戦。オランダ-スペインの欧州勢の対決となった。どちらが勝つのかは、まったく分からない。開催前、筆者が優勝候補に上げたのがイタリア。グループリーグで敗退してしまった。準準決勝のオランダ―ブラジル戦もブラジルの勝ちを予想していた。そればかりではない。いまでは遠い昔のような話になってしまったけれど、グループリーグE組では、日本の敗退を予想していた。

そんなわけで、決勝戦の展開もわからない。ドイツの水族館で飼われているタコの「パオロ」に聞いたほうがいい。それでも敢えて邪推を繰り返せば、オランダが負ける(スペインが勝つのではなく)と思う。その根拠は、オランダと南アフリカの歴史的関係を振り返るが故である。

(2)オランダ人の南ア入植

ご承知のように、南アフリカは、大航海時代(1482)、ポルトガル人バーソロミュー・ディアスにより欧州世界から「発見」され、以降、欧州からの入植が開始された。17世紀、最初に海岸沿いに入植を開始したのがオランダ人で、アフリカ系先住民から土地を奪った。彼らは「アフリカーナー」「ボーア人」と呼ばれた。

次にやってきたのがフランス人(ユグノー)だった。ところが、南アの地勢的重要性に気づいた大英帝国が南ア進出を企てる。大英帝国は先に入植した「アフリカーナー」(オランダ人)を追いたて、追い立てられた「アフリカーナー」は内陸部に進出し、アフリカ系先住民から土地を奪い取った。そして、1852年「アフリカーナー」が内陸部(現在の南アフリカ共和国の首都プレトリアの周辺)に「トランスヴァール共和国(首都プレトリア)」を、1854年「オレンジ自由国(首都ブルームフォンテーン)」を建国した。

(3)オランダの後退と大英帝国の進出

1869年、「オレンジ自由国」の首都ブルームスフォンテーンの北、キンバリーでダイヤモンドの採掘(さいくつ)が開始され、1872年、トランスヴァール東部で金が発見される。そこに生まれた町がヨハネスブルグである。

1880~1881年、第一次ボーア戦争が大英帝国と「アフリカーナー」との間で戦われた。大英帝国が「トランスヴァール共和国」を併合しようとしたのだ。ボーアとは農民の意味で、南アに最初に入植したオランダ人「アフリカーナー」と同じ意味だ。そのためトランスヴァール戦争とも呼ばれる。大英帝国はまず、ケープを占領。本国オランダより植民地譲渡を勝ち取る。その結果、東部海岸沿いのナタール地方が正式に大英帝国の植民地となった。つまりナタール地方とケープ地方は大英帝国系白人が支配し、「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」は「アフリカーナー」が支配することになった。

1899年~1902年、大英帝国は、ダイヤモンドと金の採掘権を奪い取ろうと、「オレンジ自由国」および「トランスヴァール共和国」の2つの共和国に侵略する。長い激戦の末、2つの共和国は敗北し、大英帝国に吸収される。この戦争が第二次ボーア戦争である。

(4)血塗られた植民地戦争――大英帝国がオランダ系南ア人を大量殺戮

南アを植民地化してアフリカ系先住民から土地を奪ったオランダ、そして、金、ダイヤモンドの採掘権を奪取しようとしてボーア戦争を仕掛けたイギリス。南アの近世・近代史は、血塗られた歴史にほかならない。なかでも大英帝国側が行ったボーア人殺戮は現代のホロコーストの原型ともいわれている。1900年、英軍司令官のホレイショ・キッチナーは、ゲリラとなったボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ)戦略を展開しはじめる。これによって12万人のボーア人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払らわれた。この収容所では2万人が死亡したとされる。

(5)オランダ系南ア人の復権と人種隔離政策

第二次世界大戦後、南アの支配はイギリスから「アフリカーナー」勢力に移行し始め、イギリスと強い結びつきを持つイギリス連邦から脱退(1960年)して、国名を「南アフリカ連邦」から「南アフリカ共和国」に変えた。白人政府は、人間を肌の色で区別し、人種ごとに異なる権利と義務を定める人種隔離政策(アパルトヘイト)をおし進めた。

(6)アパルトヘイト政策の撤廃

今日、アパルトヘイト政策は撤廃(1994年)され、すべての南ア人に自由と平等が保障されるようになった、といわれているが、実態はどうなのか。

そんなわけで、南アとオランダは深い結びつきがあり、南アにおけるオランダ系住民の歴史は複雑なものがある。二度のボーア戦争でイギリスに敗れ、南アの支配権を奪われたものの、第二次大戦後に復権、南アに過酷な人種隔離政策を進めたのがオランダ系南ア人である。オランダ系南ア人と現在のオランダ人とは関係がないともいえるし、同胞だともいえる。南アはいってみれば、オランダの“準ホーム”と言えるかもしれない。(筆者としては、植民地を宗主国の“ホーム”と呼ぶことは憚れるが)

(7)オレンジ軍団の敗北――決勝の地は滅亡した「トランスヴァール共和国」

W杯南アフリカ大会決勝は、同国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある「サッカーシティースタジアム」で行われる。ヨハネスブルグといえば、前出のとおり、第二次ボーア戦争によって、「アフリカーナー(オランダ系南ア人)」が大英帝国に奪われたトランスヴァール地方に位置する。オランダは再びこの地で「敗北」する(と筆者は思っている)。相手は大英帝国ではなく、スペインではあるが。

なお、オランダ代表のナショナルカラー「オレンジ色」の由来は、オランダ王家の名前(オラニエ=ナッサウ家といい、かつてフランスのオランジュ領主だった)にあるといわれている。ただ、オラニエ、オランジュに「オレンジ色」の意味があるかどうかは、筆者にはわからない。