2010年6月17日木曜日

相撲協会は解散

相撲界で野球賭博が行われていることが問題になっている。文科省を始めとする関係者等が、ようやく、ことの深刻さを認識し始めたようだ。相撲界の不祥事及び事件が報道されるのは、もちろん、今回が初めてではない。問題発生のたびごとに、相撲協会内に「××調査委員会」や「○○機関」などが設置されるものの、真相は隠蔽されたままだ。

お気づきの方も多いと思うが、今回の野球賭博事件が明るみに出たのは、週刊誌報道からであって、(スポーツ)マスコミによるものではなかった。これは、朝青龍事件のときも同様だ。あのときにも、(スポーツ)マスコミは、朝青龍・相撲協会側に対して、説明責任を追及することはなかった。そればかりではない。相撲協会は財団法人(公益法人)であり、所管の文科省に監督責任がありながら、文科省も協会に対して、適正な指導を行わなかった。適正な指導と監督が継続されていれば、不祥事の再発は防げた。

筆者が腹立たしく思うのは、TVカメラの前に出てくる協会役員(親方=元力士)が、「やっていない」「そんなことは知らない」とまず否定し、事件報道の進捗とともに「反省している」「膿を出す」に変わり、やがて、「雲隠れ」することだ。彼らのコメントからは、時の経過とともに、「事件」「疑惑」がうやむやになることを見越しているようなのだ。つまり、責任をとること=角界からの追放、刑事罰等が降りかかることはないと、高を括っていることがその表情から明らかなのだ。

彼らが高を括っていられるのは、▽自分たちは、絶対にマスコミから厳しい追求を受けないこと、▽文科省の指導が形式的なこと(法人解散には至らないこと)、▽角界からの追放処分という厳罰は絶対に受けないこと――が了解されているからだろう。厳しい処分がくだらない背景には、相撲が「国技」と認識されているからだろう。本場所の優勝者の顕彰には、「総理大臣杯」が含まれている。文科省が手を出せない「タブーゾーン」なのだろうか。

週刊誌が火をつけ、マスコミが後追い報道し、文科省のそれなりの指導があり、処分がくだり、「表」の人事が一新され、本場所が始まれば「はい、それまで」。本場所は公共放送が中継をしてくれるし、チケットもそれなりに売れる。不祥事・事件が協会を経営的に圧迫することもない。だから、“のらりくらり”とした、なまぬるい「反省」と「処分」が繰り返されだけなのだ。

今回の野球賭博事件等は、反社会的勢力と角界が深く結びついていることを暗示している。この結びつきの延長線上あるものは、角界に対して恒常的に指摘されるところの「八百長」の存在だ。野球賭博の裏側には、「相撲賭博」があり、力士が野球賭博を行っている裏側には、力士の八百長相撲と相撲賭博が結びつき、反社会的勢力は、野球賭博と八百長=相撲賭博において、角界と結びついている。こう考えることが自然だ。

賭博にはいろいろある。職場で高校野球が賭博の対象になっていることは常識だが、そこでは、サラリーマン等がささいな金銭をかけているにすぎない。生活者が行う、賭けマージャン、賭けゴルフ、賭け花札・・・が問題視されることはない。組織的賭博に反社会的勢力が介在することにより、賭け金が大きくなり、不正な金銭の動きが恒常化し、その流れが反社会的勢力の資金源として「成長」していくことを防がなければならない。

角界の暗部の解明をどうするか。文科省が真相究明を放棄し、当局も捜査を控えれば、角界の不祥事は「許される」という「タブー」が社会に定着する。協会幹部は「表の責任」をとるだけ。そうなれば、一般常識をもった人ならば、角界は反社会的勢力とつながった団体だと認識する。そんなところに、自分の子供を預けようとは思うまい。相撲は「国技」と呼ばれながら、それを担う角界は特殊視され、反社会的勢力と結びついた怖い団体の1つとして、社会から疎外される。

それでいいのだろうか。協会、文科省、当局が本気で解明をする気があるのならば、次回に予定されている名古屋場所を中止し、角界全体が真相解明に尽力していることを表明すべきなのだ。

相撲が伝統芸能として貴重なことは言うまでもない。が、それを保存する方法はいくらでもある。いまのように、財団法人(公益法人)のまま、興行を続けるという「あり方」に限る必要はない。真相究明の方法として、協会解散という選択肢から考えるべきなのだ。