2010年6月27日日曜日

テキトーなところで幕引きの予感―角界「野球賭博」事件

このたびの角界「野球賭博事件」は今後、どのような展開を見せるのか。筆者の直感では、テキトーなところで、なんとなく曖昧な幕引きが行われると思っている。その推定根拠は以下のとおり。

(1)角界と一体化した「相撲記者クラブ」

本件、そして朝青龍事件が同一の週刊誌報道から発覚したことは何度も当該コラムで書いてきた。つまり、週刊誌が報道しなければ、直近の2つの角界の不祥事が世の中に報じられることはなかった可能性が高い。

ご存知のとおり、相撲業界に関する「公式報道」は、「相撲記者クラブ」を本源とする。同クラブは政界・官界における記者クラブと同質で、大新聞・TV等以外の雑誌、フリーランス、ウエブ等のジャーナリストは入れない。同クラブの「相撲記者」は相撲協会幹部・力士と接する特権をもっていて、力士に最も近い位置で取材ができる。ということは、このたびの事件、過去の諸々の角界の不祥事を取材しやすい立場にあるはずなのだが、前出のとおり、本件、朝青龍「暴行」事件、薬物事件、若手力士暴行事件等を報道してこなかった。本件と朝青龍事件は同一の週刊誌のスクープだ。

すなわち、「相撲記者クラブ」は角界に都合の悪いことは報道しない。彼らは相撲人気を煽り、相撲ファンを増やし、相撲報道を独占する特権的地位を確保し、相撲ニュースを独占販売する利権集団なのだから。もちろんNHKもその1つで、「相撲記者クラブ」が増幅する相撲人気を基盤とし、相撲中継で安定した視聴率を稼いでいる。相撲はNHKの優良なコンテンツになっている。であるから、角界と一体化している「相撲記者クラブ」が角界追及を本気で行うはずがない。

(2)有識者も特殊性論で角界を「援護」

一部の有識者は、本件を含めて角界について達観するシニシズム的傾向をもっている。この傾向を大雑把に言うと、日本国そのものが闇社会を包摂した存在なのだから、相撲界だけに浄化を求めても無駄だと説明しているように聞こえる。

戦後日本に民主主義体制が確立したにも関わらず、日本の政治家・大企業は闇社会と深く結びついていた。60年安保闘争と右翼テロ、政治家と街宣車、大企業と総会屋、金融業と債権回収、不動産業と地上げ、芸能界と興行権・・・等々に闇社会の影がちらついていた。相撲が芸能である以上、地方巡業と興行師の関係は否定しようもない。だから、いまさら、角界と闇勢力が「野球賭博」を介してつながっていたとしても、昔からのことなのだから騒ぐに値しないと。

このような達観傾向の一部は、当たっている。戦後日本の国家機能に闇勢力がビルトインしているという指摘は正しい。とりわけ、日本の保守勢力が闇勢力を駆使して問題処理に当たっていたことは否定しようもない。だが、近年、企業においてはコンプライアンスが徹底され、株主総会から総会屋が排除されている。日本社会がその筋との関係を完全に清算・根絶できないまでも、排除に努力する姿勢を強めているなかにあって、角界は「しょうがない」という論法はいただけない。一部の有識者の角界達観視が、本件の追及を阻害している。

(3)本気になれない文科省

本件発覚の後、相撲協会が公益法人であるところから、その監督官庁である文科省を攻撃する論調が盛り上がった。公益法人については公益法人制度改革に係る3法が2008年12月1日に施行されていて、すべての公益法人は、その日から5年以内に新制度に準じた新しい法人に移行しなければならない。現在のところ財団、社団といわれている法人は、その定款、寄付行為等を見直し、「一般」か「公益」を選択し、法施行から5年以内に内閣府(認定委員会)に再申請をする。再申請先が内閣府であることは、すべての公益法人が各省庁の所管から離れることを意味する。いま現在とは、各公益法人が「一般」か「公益」か選択して移行する期間に当たっている。

相撲協会は現に財団法人と呼ばれているが、相撲協会に限らず概ねすべての公益法人は、法的には特例民法法人であって、同協会はいずれ、「一般」「公益」を選択していずれかに移行するはずである。そして、そのときをもって、相撲協会は文科省の所管から外れる。文科省にしてみれば、極めて近い将来、自らの所管から外れる法人のトラブルに関心を持てないのではないか。新公益法人の申請を審査する認定委員会の委員の人事についても文科省の関与はない。

前出のとおり「財団法人日本相撲協会」という法人は法的には存在せず、いま現在は新公益法人への移行期とはいえ、移行が完了しない間は、相撲協会が文科省の監督下にあると考えられるから、本件に関する文科省の指導・監督責任は厳しく問われてもいい。

また、現に相撲協会の寄付行為第3条に、「この法人は、わが国固有の国技である相撲道を研究し、相撲の技術を練磨し、その指導普及を図るとともに、これに必要な施設を経営し、もって相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的とする。」と、「相撲道」が「国技」である旨を定めている。

新法施行前の公益法人制度では、所管官庁の文科省が相撲協会の寄付行為を認可したことになるから、国が「相撲道」を「国技」と定めたとみなしていい。よって、“協会が勝手に相撲を「国技」だといっているだけだ”というマスコミに登場するコメンテーターの指摘は正しくない。相撲協会が作成し提出した寄付行為(第3条)を文科省が認可しているのであるから、国=文科省は、相撲協会寄付行為第3条が規定する相撲は「国技」であることを認めたと考えられ、となれば、文科省が「相撲道」を「国技」である旨のお墨付きを与えたと考えるのは自然である。換言すれば、相撲が国技である根拠とは、文科省が同協会を公益法人として認可したことと、同協会の寄付行為の規定を認可したこととがが、一体的であることに求められる。

であるから、国技に係る者が野球賭博を反社会的勢力の影響の下に行っていたという本件の責任は、ただただ、文科省にある。相撲協会が今後いかなる法人格を選択するのかは定かではないが、いまのところ、本件の文科省の監督責任は厳しく問われるべきなのだが、「相撲記者クラブ」が相撲協会のみならず文科省とも一体化しているから、これ以上の文科省批判は湧き上がるはずがない。

(4)マスコミが厳しい批判を行わないから、当局も動かない

当局はどうなのか。当局の捜査の加減は、マスコミの動性に左右されるから、「相撲記者クラブ」が相撲協会と一体化している以上、厳しい捜査は期待できない。ごく一部の力士、角界関係者等に捜査が及んで、何人かの者に逮捕状が出されて終わるのではないか。

(5)協会に自浄能力を期待するのは・・・

当事者である相撲協会が調査を行い、自浄能力を発揮することは、過去の同協会の「実績」からみて、あり得ないと考えるほうが自然だろう。当局、マスコミ(相撲記者クラブ)、監督官庁・・・が協会を守っている以上、協会に危機感は生まれまい。その結果、事件は風化し、角界内部の悪は温存される。そして・・・