2009年4月26日日曜日

谷根千





谷根千についてはずいぶん、写真を撮ってきた。

だんだんと古い木造の住宅が壊され、アパートやらプレハブの戸建て住宅になっていってしまう。

ヨーロッパには旧市街という地区があって、中世の町並みが保存され、観光資源になっている。

この地域もそうなる可能性をもっていたが、開発はとまらない。

いや、開発という表現はなじまない、住民が利便性を選択してしまっただけなのだ。

住む人と散歩する人とが交わることはない。

火事



拙宅近くで大火事。

出火当日は福岡にいたので、現場は見ていない。

焼け跡は無残である。

2009年4月21日火曜日

福岡へ

あすから2泊で、福岡へ行ってきます。

仕事場も宿泊先も、天神のど真ん中、アフターファイブに期待できます。

食べ物がおいしいです、博多は。

2009年4月19日日曜日




拙宅のまわりにはこの季節、一斉に花が咲き出す。軒先の小さな植木鉢でも、なかなかみごとな花が咲くのである。

2009年4月18日土曜日

不調に

土曜のきょうは、スポーツクラブで胸、背中、肩の筋トレの日。

15分ほど、クロストレーナーでウオーミングアップの後、ベンチプレス。

なんとなく体が重く、一押しが利かない。

インクライン・ベンチも同様。

背中は、懸垂を取り入れたのだが、これも厳しい。

以下、最後のシュラッグまで、体がだるいまま。

こういう日もある。

2009年4月17日金曜日

休み

会社を休んで、自宅で休養。

天気が悪いので外に出かける気にもならない。

家の中をかたづけて、不要なものを処分して、収納空間を増やす。

冬物をクリーニングに出して、夏物を引っ張り出す。

昔かったスーツは体型が変化して着られない。

春を過ぎて、脱皮をした気分である。

2009年4月15日水曜日

黄色と桃色



黄色と桃色の花が偶然、混在する。

桜の花が散った後、いろいろな色の花が季節を彩る。

晴れて風の強い日だった。

少し歩くだけで、汗ばんでしまった。

2009年4月12日日曜日

家紋

家紋という不思議なデザインが日本にはある。

戦国時代の武将は自軍の目印として、独特の記号を考えた。

徳川は葵、真田の六文銭などが特に名高い。

明治以降、武家は制度としては存在しなくなった。そこで、一般の家庭が武家の家紋を取り入れるようになった。紋付をつくるときに、我が家の家紋を入れ始めたのだ。

家紋ばかりではない。自分たちの村落は、平家の落ち武者が開いたものだという「伝説」が、日本中に存在しているという。とりわけ、辺鄙な山の中の村落に限って、「平家」なのである。

繁栄に取り残された自分たちに責任はない、自分たちは賊軍、敗者を祖先に持つものなのだから、繁栄から取り残されて当然の運命にある・・・という慰めの論理化であろう。

2009年4月10日金曜日

隼人稲荷



東国江戸の北端の地、日暮の里に隼人稲荷あり。

柳田国男に倣えば、この稲荷の由来を確かめなければならないはずなのだが。

この稲荷は善性寺という日蓮宗の寺の境内にある。筆者が子供のころ、この寺の前の道路工事の際、江戸時代の権力者の棺が発掘され、大騒ぎになったことがあった。その棺は徳川の某将軍の親戚の者のものだといわれた。 発掘された棺の中にはミイラがいた、という噂が立ったのだが、筆者は見ていない。

悪友の一人が発掘の際に出てきた松脂の破片を拾い、それを筆者に見せてくれた。悪友は、ミイラはこの松脂の中に安置されていた、というような意味のことを筆者に告げたのだと思うのだが、もちろん本当かどうかはわからないし、その松脂とミイラが本当に関係があるかどうかもわからない。なにしろ、遠い過去の出来事なのだから。

2009年4月6日月曜日

桜(続)


都会の桜が、新しい景観をつくりだす。

美しいかどうかは、その人の感性による。
超高層マンションが桜を突き抜けるように、たっている。






2009年4月5日日曜日

満開


暖かい。


桜も満開だ。


なんだかんだといっても、季節は巡る。


桜が咲かないことはない。

2009年4月4日土曜日

板金屋さんですか

朝、スポーツクラブへ向かう途中、笑顔の老人が近づいてきて、「お宅さんは、板金屋さんですかい」と話しかけられた。うむ、筆者は何度か転職をしたが、板金業に従事したことはない(笑)。

「いいえ」と答えて遠ざかって、桜並木を歩いていると、さっきの老人が自転車で筆者を追い越しつつ、「S通りに住んでいたことは・・・」と尋ねてくるのだが、これも該当しない。よっぽど筆者は「板金屋さん」に似ているのだろうな――と思いながらも、人違いであることは揺るぎようがない。「人違いですか、すいません」てなことで、その老人と筆者は別れた。

うーむ、その老人はだれでもいいから、何かを話したかったのか、桜満開の季節、「一人」が辛かったのか、筆者が暇なときならば、話し相手になってあげてもよかったのかもしれない。それとも、「板金屋さん」に借金を踏み倒されたのかもしれない、などと考えると、複雑な心境になってしまった。

「板金屋さん」というのは、どういう仕事をするのだろうか。

2009年3月30日月曜日

桜は咲いたが


昼休み、事務所前を通るY通りの桜並木からY神社まで歩いてみた。


桜は咲いているが、あまりきれいではない。


とりわけ、Y神社境内の桜はがっかりである。

2009年3月29日日曜日

寒の戻りか花冷えか

拙宅近くの花見の名所では、寒さの中、花見に興ずるグループが。

桜はどうみても、三分咲きだろうか。

さて、筆者の事務所は昨年の秋に引越しをして、都心でも有数の桜の名所の近くになった。

仕事が終わってから、ぜひ、見に行きたいと思っている。

2009年3月27日金曜日

寒い

昨日の夕方から体調不良。

きょうは家で静養。一歩も外に出ていない。

桜が咲いたというが、花見は来月か。

2009年3月22日日曜日

東京マラソン

なぜかいま、東京マラソン。参加した肥満のタレントが倒れた。ニュース映像で見る限り、コスプレあり、芸能人の参加あり、楽しければいい――の学芸会、パフォーマンス大会のノリだ。筆者の目には、いずれも醜悪なものに写る。

マラソンを否定しない。その大会を否定しない。走りたい人が走ることをだれが止められよう。スポーツというのはそのようなものだ。

タレントが倒れたのは不幸である。彼はきっと、この日に備えて練習に励んだのだと思う。だがしかし、繰り返すが、筆者には東京マラソンのあり方が醜悪に写る。芸能人が走ろうが一般の人が走ろうが、走ることはかまわない。それだけのことで終わってほしい。

2009年3月21日土曜日

MAXを更新

ここのところ好調の筋トレ。きょうは、ベンチプレスで●㌔の大台にのった。背中もずっとMAXを更新中。背中はいままでやってこなかったので、重さが伸びているけど、そろそろ、壁にぶつかるころ。

筋肉増強にはたんぱく質が不可欠。木曜日に食べたトルコ料理がよかったかも。

2009年3月17日火曜日

ベトナムコーヒー

年末年始にベトナムのホーチミン市観光にいって以来、土産で買ったベトナムコーヒーを愛飲している。

ベトナムコーヒーは、温めたカップにコンデンスミルクを入れておき、そのカップの上にコーヒー粉を少量入れた金物のフィルターをのせ、熱湯を少量入れて15秒ほど蒸らし、さらに、お湯を注げば出来あがる。お湯が落ちるまで時間がかかるが、どろっとした甘さがいかにも亜熱帯の風味を感じさせる。

現地では、ベトナムアイスコーヒーが好まれるようだが、フレーバーを利かせたホットも美味である。

2009年3月16日月曜日

日本の野球は強いか

WBC第2ラウンドに進出した日本は、強豪キューバを6-0と圧倒した。結果からすると、相当強い感じがする。試合を見ていないが、キューバの体格のいい打者は、松坂の投ずる変化球に大振りするばかりで、バットにボールが当たらなければ、ヒットにもホームランにもならない。ニュース映像から受けた感じとしては、日本の投手の技術とキューバの打者の技術の差は相当大きいと。さらに、負けたキューバの監督が、投手の経験の差を指摘していた。

今大会で日本が優勝するかどうかはわからないものの、日本の野球文化というのは、「世界一」に相応しい土壌をもっている。その1つが、高校野球であろう。ローティーンの才能ある若者が野球部に集められ、勉強もそこそこ、野球の猛練習に励む。無論、競争も激しい。高校生野球の頂点が「甲子園」で、高校生は甲子園出場を果たすため、野球漬けの毎日を送る。

プロのスカウトの目に留まった若者は日本のプロ野球選手として契約し、日本球界で成功した選手は、さらに、MLB(米国大リーグ)に進む。松坂がまさに、そうしたキャリアをもつ日本のプロ野球選手であり、WBCに出場しているダルビッシュらの若い選手の多くが、そのような道を歩むであろう。

30代前半の日本のプロ野球選手は、高校野球から数えて15年以上の間、勝負と競争を経験している。日本の野球は強くて当たり前である。

2009年3月15日日曜日

重い

きょう、久々に親戚の集まりがあった。

叔父の呼びかけで、親戚が一同に会した。

筆者の叔父たちは一癖も二癖もあって、一筋縄ではいかない。

疲れる。

とりあえず

日記として利用していたブログが故障。復旧が遅れています。

もしかしたら、そのまま潰れてしまうかもしれません。

そんなわけで、しばらくこちらを使用します。

2009年2月9日月曜日

過去のBlog

過去のBlogです。

Daily Life

2008年12月23日火曜日

『図説アーサー王百科』

●クリストファー・スナイダー〔著〕 ●原書房 ●2800円(+税)


アーサー王の物語については、日本人にとってわかりにくい。アーサー王の物語といっても、アーサーいう人物を主役にした一貫性のあるストーリーの展開があるわけではない。アーサー王が主役であることもある。また、ランスロット、マーリンといった、アーサー王とつながりのある者が独自の物語を展開させる場合もあるし、アーサーと関連して登場する場合もある。また、トリスタンとイズーの物語のように、まったく別世界で物語が展開する場合もある。

日本において、これに近いものといえば、『平家物語』が思い浮かぶ。2つの物語の類似点の第1は、先述したように形式にある。『平家物語』はいろいろな物語の集合体であって、それぞれが独立した展開をみせている。アーサー王の物語も同様に、いくつかの話の集合体である。

第2は、共に、宗教的世界観に規定されている点である。『平気物語』は仏教的世界観――諸行無常、因果応報等に基づいているし、アーサー王はケルトの原始宗教、後世のキリスト教の教えを取り込んでいる。

第3は、後世への影響という点。どちらも、後世の作家たちが物語を原型にして、それに新たな創造を加え、解釈と改変により、新しい物語を紡ぎだしている。もちろん、その影響は文学者ばかりではなく、大衆レベルに行き渡り、サブカルチャーの主役としても、生き続けている。

一方、そのスケールは比較にならない。『平家物語』はたかだか日本(語)に限られた範囲で普及したものにすぎないが、アーサー王の物語は、今日の英国(イングランド、ウェールズ、スコットランド)、アイルランド、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、東欧といったヨーロッパ全域から、さらに、オリエントにまで広がりをみせている。物語がもっているパワーにおいても、アーサー王のそれは群を抜いている。

アーサー王の物語の原型の成立は5~6世紀だと推定されているが、そのころのヨーロッパは、ゲルマン民族の大移動期に重なっている。ローマが支配したブリテン島は、ローマ帝国の衰退と共にゲルマン民族の侵入を受けるようになる。アーサー王とは、そのころ、ゲルマン系のアングロ・サクソン族等の侵略に抗した、ケルト系先住民(ブリトン人)の王の一人をモデルにしているという説がある。その王と臣下の武勲を讃えたものである。

ところが、アングロ・サクソン族がブリタニアを征服した後、アーサー王の物語は、ブリトン人の敵=侵入者であり、新たな支配者であるアングロ・サクソン族に受け入れられる。この点は、スケールこそ違うものの、敗者・平家の物語が、勝者・源氏の世の中で敷衍する現象に近い。 ゲルマン系の各民族の移動と連動して、アーサー王の物語は、ヨーロッパ各地に広まっていく。そして、成立期にはブリトン人の異教(ケルトの宗教)的要素が盛り込まれたアーサー王の物語の中に、キリスト教的要素が混入する。

キリスト教が物語の中に混入するプロセスは、注意を要するところなので、順を追って書いておこう。 まず、古代ブリタニアの先住者はケルト系のブリトン人で、ケルトの古代宗教を信仰していた。ところが、BC43年以降、ローマ帝国の支配が始まる。以来400年にわたり、ブリタニアはローマの属州の1つであり続けた。その間、伝説では紀元1世紀、アリマタヤのヨセフにより、キリスト教がこの地に布教されたといわれている。しかし、ブリトン人はキリスト教徒に改宗したものの、ケルト的異教の要素も色濃く残した。アーサー王の物語に中にキリスト教と異教的要素が混在しているのはそのためである。

紀元400年を境に、ゲルマン系諸族の侵入が激しくなる。侵略者としてやってきたゲルマン系アングロ・サクソン族は、異教徒であった。ブリトン人はだから、キリスト教徒として、異教徒であるアングロ・サクソン族と戦った。つまり、アーサーは、キリスト教徒の王として異教徒と戦った英雄という側面をもっていた。 ブリトン人とアングロ・サクソン族の戦いは、後者の勝利にて終結する。この間の紀元400~600年を本書では「アーサー王の時代」と読んでいる。一般には、英国史における暗黒時代と呼ばれる、混乱と破壊の時代であった。

ブリタニアの支配者となったアングロ・サクソン族は、当地においてキリスト教に改宗した。そして、キリスト教徒の王であるアーサーを自分たちの王として受け入れようと努めた。アングロ・サクソン族のブリタニアにおける正当性は、キリスト教とアーサー王(という伝説の英雄)により担保された。 アングロ・サクソン族に限らず、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン系民族は、カトリックに改宗した。そして彼らの影響によって、各地にちらばったアーサー王の物語の中にキリスト教の物語が加えられ、アーサー王の物語は変容・発展する。さらに、中世に入ると、ヨーロッパに成立した騎士道のエートスが加えられ、アーサー王の物語が整備・完成にされていく。

さて、本書を読むことにより、英国(イギリス)という概念の曖昧さが一枚一枚はがされ、素のブリタニアの顔が現れると同時に、アーサー王の物語の誕生から今日までの成長の姿が、確認できる。「アーサー王」こそが、西欧の姿そのものではないか。原始ヨーロッパ→ケルト→ローマ→ゲルマン、また、異教→キリスト教→近代思想という、それぞれの要素から構成された今日のヨーロッパを遡る道は、アーサー王の物語の成立から今日に至る文学的継承を遡る道に並行している。

本書は、アーサー王の物語の解説書として、わかりやすさにおいて、出色の書である。アーサー王に興味を覚えた者ならば、まず一番に読むことをおすすめする。 (2008/12/23)

2008年11月15日土曜日

『Italia イタリアの歓び 美の巡礼北部編』

●中村好文 芸術新潮編集部〔編〕 ●新潮社 ●1300円(+税)


観光旅行は事前の情報の収集のいかんによって、変わる場合がある。まっさらなまま当地に赴き、真直ぐな感動を覚える人もいるだろうが、かなりの感性の持ち主であって、筆者のような凡人は、なかなかそうはいかない。逆に、旅行後、観光情報雑誌を読み返していて、あれ、あそこに行ってなかった!なんて後悔することもある。

本書は、観光王国であるイタリア(北部)を紹介した、写真情報誌。イタリア北部は観光資源の豊富な地域で、高級ブランド好きな日本人が大好きなミラノや、世界でもトップクラスの観光地・ヴェネチア、フィレンチェなどが含まれている。本書はそういう超有名な観光地を一味変わった視点でとりあげる。たとえば、ヴェネチア紹介では、エッセイスト・須賀敦子の『地図のない道』の舞台となった場所を、彼女の文章の引用と、写真で紹介する。

さて、本書を評する視点からは外れるが、観光の“歓び”というのは、以下のようなところにあるような気がする――どんな都市の裏道にも、歴史とそこに関わった無数とも言える人間のドラマが隠されている。巨大な宗教施設や都市施設は当然のことながら、人の目を引くけれど、朽ちた建物がひしめく迷路のような細道には、暮らしの重みや生活の詩がある。美しさの基準はひとさまざまである。ヘルダーリンは、“人は詩的に住まう”と言った。

ある個人がたまたまそのとき持ち合わせた気分や恣意的空間解釈によって、無名の地が意味のある場所にとって変わる。人はそのような輝きの認められる場所に出会うため、旅行を続ける。そういうふうに考えるならば、本書に取り上げられた場所が新たな観光地である必然性はない。観光する主体が、その主体ごとに意味ある場所に出会える可能性があるからだ。つまり、旅の発見の可能性を一冊の写真集にまとめるならば、本書のような体裁におさまることもある、ということにすぎないのだと思う。もちろん、そこから重要な示唆を受けることもあるだろ。
(2008/11/15)

2008年11月11日火曜日

『地図のない道』 須賀敦子全集第3巻

●須賀敦子〔著〕 ●河出文庫 ●1100円(+税)


本書は、著者・須賀敦子(1929-1998)がヴェネチアについて書いたエッセイ。本書を読んだ動機はこの秋、筆者がヴェネチアに観光旅行したことによる。

著者・須賀敦子は、イタリア留学中にイタリア人男性と結婚するも、夫君に先立たれ、単身イタリア滞在を続け、翻訳・イタリア文学研究等に従事した。その傍ら、多数のイタリアに関するエッセイを日本で発表した。イタリア研究者であるから、ヴェネチアについても、一介の観光旅行者とは異なる視点がばらまかれている。

たとえば、本書の中の『ザッテレの川岸で』において、そのことは顕著だ。このエッセイの大筋は、著者・須賀敦子がヴェネチアの街中の水路に、「Rio Degli Incurabili(治療のあてのない)」というサインを発見したところから始まる。もちろん、イタリア語のわからない筆者のような観光客には、そんなサインが目に入ろうはずもない。著者・須賀敦子はそのサインから、ヴェネチアの歴史の中に隠された多数の娼婦の存在を発見していくことになるのだが、ヴェネチアの娼婦を巡る著者・須賀敦子の“知的冒険”については、本書をお読みいただくほかない。ただし、この“知的冒険”を、語学に堪能なイタリア通の知識のひけらかしと感じるか、それとも、知的冒険として著者(須賀敦子)に同伴するかは、読む側の勝手であって、どちらかが正しいとも言えない。

前者に立つならば、ヴェネチアの中世以降の繁栄の陰に、多数の娼婦が存在したことは常識だ、というだろう。「Rio Degli Incurabili」という、日本人にとって不気味なイタリア語が掲げられた病院跡を発見した視線の鋭さは認められても、「だからどうなんだ」という意見にも蓋然性がある。

著者・須賀敦子のヴェネチアにおける「発見」を、日本(東京・浅草)におけるイタリア人に置換して考えてみよう。つまり、こういうことだ――東京の外国人観光地のメッカの1つである浅草を訪れた日本語に堪能なイタリア人が、浅草の外れの千束で吉原大門という地名を「発見」したとする。この辺りの地名は千束なのに、なぜここが「吉原」なのかと疑問をもち、いろいろ調べた結果、20世紀まで、ここは「吉原」という地名で、巨大な遊郭が存在し、江戸時代には「遊女」「おいらん」と呼ばれた娼婦が多数存在し、悲惨な生活をしていたことを突き止める。このことは、日本語が堪能なイタリア人の“知的冒険”であることは間違いないのだが、日本人の大多数にとっては、千束が吉原であり、遊郭地帯であったことは周知の事実なのである。吉原は単純すぎるというのならば、「谷根千」ブームに沸き外国人観光客が多数訪れるようになった、文京区・根津に遊郭があったことを、なんかのきっかけで外国人が発見する、という、“知的冒険”に組み替えてもいい。

『ザッテレの川岸で』というエッセイに限らず、著者・須賀敦子の“発見”は、著者自身のイタリア研究に係る奮闘・奮戦記であることが否めない。「だから、須賀敦子のエッセイは取るに足らない」と評するつもりはない。異文化研究には困難が付きまとうものだ。ヴェネチア人にとっての常識が、日本人にとってはまるで不可解であることが少ないはずがない。困難な異文化研究のプロセスについて、研究者の謙虚な挑戦の結果として読むものに伝えられるか、それとも、傲慢な知識のひけらかしとして伝えてしまうかは、研究者の人格に起因する文体に現れる。筆者は、須賀敦子の文体がどちらに属するかの判定を控えたい。ただ、著者・須賀敦子のエッセイを読んでイタリア観光に臨めば、その観光はより深いものとなることは間違いない。観光情報として、本書の貴重さが損なわれるものではないことを確信している。 (2008/11/11)

2008年8月5日火曜日

『未来派左翼』(上下)

●アントニオ・ネグリ〔著〕   ●NHKブック   ●各920円+税


本書は、ネグリがインタビュアー(ラフ・バルボラン・シェルジ)の質問に答える形式となっている。質問と回答は、これまでのネグリの思想的中核をなすキーワード――帝国、生政治、マルチチュード、共(common)といった用語を基に進んでいくものの、世界情勢、イタリア左翼についてといった情況にも及ぶ。イタリアの左翼に関する言及は日本人に馴染みにくい部分もあるが、日本と酷似したとも読めるため、読者は経済のグローバル化の進捗と左翼の政治的関係を再認識することになろう。ネグリの回答はわかりやすく読みやすい。

まず、ネグリの既成左翼批判の核心部分を引用しておこう。
 19世紀末から20世紀初頭にかけての〈技術的構成〉は、自分の仕事の手順だけでなく工場全体の生産サイクルも完璧に理解している専門労働者というものでした。そしてこれに対応する〈政治的構成〉は評議会制であり、また、その後のソヴィエト制でした。つまり労働者たちは生産サイクルの指揮管理を自分たちで引き受けることを要求したわけです。1930年代に大きな危機が起こります。その危機をきっかけとして新たに現れることになった〈技術的構成〉が、大衆労働者です。
 大衆労働者とは、労働のティラー主義的な組織化にしたがわされ、工場内で疎外され、複雑化した生産サイクルの全容をもはや把握しきれなくなった労働者のことです。これに対応する〈政治的構成〉は、賃金と福祉体制の管理運営をめぐる社会闘争でした。福祉体制の管理運営が、所得を社会的に再配分するための鍵と  して求められたのです。しかしまたそれは、生産的な〈共〉が取り戻される最初の契機ともなりました。
 そして今日、われわれは、さらに別の労働の〈技術的構成〉を前にしている。つまり、非物質的なサービス労働、協働にもとづく認知労働、自己価値形成を行う自律的労働といったものです。そしてこれに対応する〈政治的構成〉はとえば、こうした労働を政治的に代表するものは不在であり、左翼はこのゲームの埒外に身を置おいているわけです。(上巻P203~204)
ネグリがポストモダンの変革主体として想定しているのは、引用部分の第3節にあるところの、非物質的なサービス労働、協働にもとづく認知労働、自己価値形成を行う自律的労働に従事する者である。欧米のみならず、日本の既成左翼も同様に、彼らの組織化に失敗している。日本を含めた欧米先進国の労働は、フォーディズム型労働から、ポストフォーディズム型労働に、そして、工場の生産ラインに従事する“プロレタリアート”から、ネグリのいう“マルチチュ-ド”へと変容しているのだろう。

がしかし、旧来型に分類される大衆労働は今日、第1に、第三世界の労働者に委ねられている、と規定すべきではないか。中国等のアジア・アフリカ・中南米・東欧等の近代化の途上にある国々は世界の工場と呼ばれ、これらの国々の労働者は、先進国の資本の下(に設置された工場や流通の現場)、もしくは、新しく自国に育った資本の下で働いている。

そればかりではない。彼らのうちの多くが移民もしくは不法就労というかたちで国境を越え、先進国において、フォーディズム型労働に従事している。フォーディズム型労働は、国際的分業にさらされているのではないか。

第2に、新自由主義経済下の先進国においては、労働者は正規労働者と非正規労働者という二極の身分に制度化され、非正規労働者は、前出の移民労働者とともに、先進国における旧来型労働に従事している。非正規労働者の多くは、派遣労働者と呼ばれる。日本、米国のように労働者の流動性を認める体制下では、彼らの生涯総所得額、雇用の安定性等において、正規労働者に比べて劣っているのが実態である。ネグリが指摘するように、資本家が工場という内部に労働者を同一の要件の下で管理する時代ではないことは確かである。労働者像は多様化している。20世紀中葉以降発生した“大衆労働者”が、19世紀末の“工場労働者”に培われた階級意識で団結することは難しく、さらに、非物資的労働――この際、ひらきなおって「オフィスワーカー」及び「サービス労働者」と規定すれば――に従事する者が、“大衆労働者”と連帯することも難しい。

そのうえで、いま世界規模で起こっている労働者の変容は、①管理型・情報型・非物質的労働に従事する労働者の輩出、②国際分業に基づく、第三世界労働者のフォーディズム型労働への強制、③先進国内における非正規労働者の大量発生と固定化、および、非正規労働者の大衆労働への強制、として現れているのではないか。②、③を総称して、「プレカリアート」(不安定労働者)と呼ぶのだが、ネグリは、①~③をマルチチュードとして一括し、多様化した労働者が連帯できる環を見出そうとする。その意図は間違っていないものの、①と②③の連帯の環がいささか明瞭でない。シアトルやジェノバの反乱では、3者が共闘したとネグりは言うが、オフィスワーカーとパリ郊外(バンリュー)の移民がいかにして、連帯可能なのか、わかりにくい。日本の現実に即して言えば、①-②-③のそれぞれが切断され、階層として固定化され、たとえば、①は資本家(起業家)との差異を縮めている一方で、②③の不安定性からくる生存の危機が深刻な社会問題となっている。
(2008/08/05)

2008年7月19日土曜日

『十字軍という聖戦』

●八塚春児〔著〕 ●NHKブックス ●970円+税


中世に行われた十字軍の遠征に関するこれまでの定説から、われわれはいくばくかの固定的イメージを抱いていて、それを疑うことを知らなかった。本書はその固定的イメージの解体を試み、十字軍の実態に近づくことを試行した書である。十字軍研究の最近の成果を踏まえ、通説を批判するスタンスは強烈で、かなり刺激的な内容となっている。

本書によれば、十字軍遠征の目的は、カトリック教会とそれ以外の勢力圏との関係に規定された事業(プロジェクト)であるという。

その関係とは、第1は〔西欧〕⇔〔ビザンツ〕、第2が、〔キリスト教圏(西欧及びビザンツ)〕⇔イスラム圏。第3が、西欧内部における〔カトリック〕と〔異端〕、第4が、西欧内部における教皇権(聖権)と諸侯権(俗権)となる。以上が、本書の基本コンセプトである。

歴史上の出来事を説明することは難しい。今日の価値観に基づいて説明できるものもあるし、そうでないものもある。当事者の修正もあるし、後代の修正もある。十字軍遠征という事業は、であるから、主体をカトリック教会のみに一元化することができない。カトリック教会と諸侯(世俗勢力)の共同事業であり、複数の諸侯の共同性ももちろんであり、世俗勢力においては、それぞれが抱えた事情により、十字軍という共同事業に加わったり加わらなかったりした。十字軍遠征の目的も参加者も、それぞれ異なっている。表面上、中心にカトリック教会があり、贖有(免罪)が事業推進の力となったことだけが変わらない。

十字軍の時代の世界――西欧、地中海沿岸、小アジアに至る地域――の情勢は、カトリック教会(西欧)とビザンツ教会(東方)とが並立した時代だった。先述のとおり、このことは重要で、十字軍が開始された主因の1つといえる。2つの宗教勢力は、自陣の勢力拡大を目指すことにより生じる対立の力学と、同じキリスト教であるという結束の力学を、互いに内包していた。

であるから、第1回十字軍のように、トルコ=イスラム勢力の台頭というキリスト教世界の外部に対して両者(カトリックとビザンツ)は共同、共存の意識を醸成し、聖地(エルサレム)奪還を主題化し、ビザンツ側から西欧に対して、十字軍派遣の要請になり、両勢力は共同してイスラム側と戦った。

また、一方、第4回十字軍では、十字軍(西欧)はイスラム勢力掃討を中止し、コンスタンティノープルを占領するという、「転換」が図られている。十字軍が敵と味方を180度転換させた。この「転換」の理由は本書に詳しい。また、キリスト教内部においては、アルビジョア十字軍に代表されるように、同じキリスト教でありながら、十字軍が異端(カタリ派)討伐に向かった。

宗教上の対立――キリスト教とイスラム教、ビザンツに対する親和と反発、キリスト教内部の異端(カタリ派)と正統(カトリック)の争闘――という側面で十字軍事業が説明されそうに見えるのだが、それは一元的解釈である。たとえば、第1回十字軍に参加した諸侯には、もはや西欧内に領地を相続できない第二子以下の場合が認められ、彼らはエルサレム占領後、その周辺に十字軍国家を建国している。また、アルビジョア十字軍の場合、北フランス諸侯勢力による、南フランス諸侯勢力の掃討という、フランス統一の軍事的目的が見出される。

十字軍はこのように、西欧内部の問題解決手段として「発明」された、政治的・軍事的行動であり、プロジェクトである。だから、中世初期からその終わりに至るまで、十字軍というプロジェクトが有効である限り、目的も構成者も異なって、何度も繰り返された。

本書の主題とは離れるが、本書は宗教(キリスト教)の教義が時代とともに変容することを指摘している。この指摘は極めて重要なものなので、そのポイントを引用しておこう。

原始キリスト教(聖書)の成立期、キリスト教は相手と戦うこと、復讐すること、暴力を行使することを禁止した。汝殺すなかれと。ところが、キリスト教が国家(ローマ帝国)に取り込まれたとき、国家宗教(カトリック教会)は、原始教義から乖離した。宗教が国家と結びついたとき、国家の敵は、宗教の敵として規定される。宗教は国家目的――軍事行動を補完する役割を担う。

だから、今日において、宗教に基づく政治勢力の存在は危険このうえないものといえる。宗教が平和や人道を説いていたとしても、宗教政党として国家運営に携わったとき、宗教的教義は機能しなくなる。いまから1000年前に起こったキリスト教の変質が、宗教と国家の関係をわれわれに説明してくれている。十字軍は、そのよき事例の1つである。西欧というキリスト教圏においては、暴力を否定する宗教を国民が信じていたにもかかわらず、聖戦と冠された暴力=殺戮が正当化され、実際に何度も行われたのだ。(2008/07/19)

2008年7月9日水曜日

『蒼ざめた馬』

●ロープシン〔著〕  ●岩波現代文庫  ●1000円(+税)


帝政末期ロシアの革命思想

著者(ロープシン)は、本名ボリス・ヴィクトロヴィッチ・サヴィンコフ(1879~1925)といい、20世紀初頭、ロシアのエスエル(社会革命党)のテロ専門組織・エスエル戦闘団の指導者の一人でありながら、ロープシンというペンネームで小説を書いた。彼はテロリスト集団の指導者サヴィンコフという顔と、文学者ロープシンという、2つの顔をもっていた。

まず、本書が書かれた当時のロシアについて簡単に説明しておこう。当該説明は、『サヴィンコフ=ロープシン論』(川崎浹〔著〕)を参考にした。ちなみに、川崎浹は『蒼ざめた馬』の訳者で、『サヴィンコフ=ロープシン論』は、岩波現代文庫版『蒼ざめた馬』に収録されている。

「ロシア革命」(1917)は、レーニン率いるボルシェビキ(多数派の意/ロシア社会民主労働党左派)によって行われたことは知られているが、ボルシェビキが革命の主導権を握ったのは、革命成功直前からであって、帝政ロシアの専制政治(ツアーリズム)に対する闘争の初期段階は、共産党以外の政治勢力によって主導されていた。

反ツアーリズム運動の魁となったのは、1870年代から80年代にかけて行われたナロードニキ運動だ。この運動は、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンをかかげ、貴族階級に属する知識人青年によって担われた。彼らは、自ら農村に入りこんで、政治意識の遅れた農民たちを啓蒙しようと試みた。貧困で苦しむ農民の意識を変えなければ、ロシアは変わらないと考えたのだが、彼らの行動や考え方(アナーキズム、テロリズム)は農民にはなかなか理解されなかった。

19世紀末のナロードニキ運動の失敗から停滞を余儀なくされた反ツアーリズム運動であったが、1905年、ロシア革命の序章とも呼ぶべき民衆の反乱「血の日曜日事件」が勃発し、ロシアの反政府運動は再び高揚期に入った。

サヴィンコフ=ロープシンが属したエスエル(社会革命党)は、ナロードニキ運動の影響のもとに結党された政党で、運動の母体をロシアの農村に求めた。党の指導者層も同様に、貴族階級の若い知識人だった。エスエルは、1905~1906年にかけて第1回党大会を開催し、その中でサヴィンコフ=ロープシンは、テロを担当する組織(戦闘団)を分党することを主張し、アゼフとともに戦闘団再建に着手した。戦闘団は、内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺事件後、セバストポリで逮捕された。サヴィンコフ=ロープシンは裁判直前に逃亡に成功、欠席裁判のまま、死刑判決を受けた。

1908年、アゼフがスパイであることが発覚。サヴィンコフ=ロープシンは戦闘団の指導者となり、首相として革命派に対する徹底的な弾圧で知られたストルイピンの暗殺やテロ遊撃隊の結成を計画するが、これは成功しなかった。エスエル第2回党大会で戦闘団代表を辞任し、その後、パリに移った。以後もニコライ2世の暗殺計画を準備するが未遂に終わった。

1917年、レーニンによるロシア革命が成功。ソヴィエト政権の成立とともに、エスエルは、メンシェビキとともにボルシェビキとの権力闘争に敗れ、革命の主体から遠ざけられた。レーニンの死、スターリンの台頭とともに、サヴィンコフ=ロープシンは革命政府と対立を深め、白軍(反革命軍)に従軍し、赤軍(ソヴィエト政府軍)と戦った。白軍は、ロシア革命の成功を脅威と感じる国外の援助を受けながらも軍事的に敗北。サヴィンコフ=ロープシンもソヴィエト側に逮捕され、投獄後、自殺したとされているが、その死についてはいまなお、謎が多いという。

サヴィンコフ=ロープシンの活動歴から、彼の政治信条を大雑把に評せば、軍事至上主義=テロリストであって、政治的指導者ではなかった。レーニンが現実の統治手法として、ソヴィエト(労働者・兵士・農民を連合した協議会)を用い、さらに。国家統治の最強組織である国軍を革命側に引き寄せる構想をもったことに反し、サヴィンコフ=ロープシンは過激な運動=テロ戦術の実行者の位置にとどまった。専制政治の暴力に対して、人民の暴力(テロ)の正当性を政治信条としただけのように思える。

ソヴィエト革命後、サヴィンコフ=ロープシンは、先述のとおり、彼の思想信条である、ロシア農本主義に根ざした白軍に従軍したけれど、白軍の実体は、反革命を援助する国外勢力の資金援助の下に結集した君主主義者、民族主義者、全体主義者、反共的自由主義者らの野合集団であった。サヴィンコフ=ロープシンの最後の居場所として、白軍が最適だったとは思えない。

本書に触発されてロシア革命前後のロシア近代史を振り返ったとき、19世紀末の帝政ロシアにあって、アナーキズム(無政府主義)とテロリズムが革命運動の主な潮流となった理由が理解しにくい。前出のとおり、エスエルが展開した冒険主義的政治運動を担ったのは、貴族階級の若い知識人だった。彼らが、ツアーの圧政に苦しめられた人民、とりわけ、塗炭の苦しみにあった農民に対し、深い同情を示したということはもちろんだが、それ以上に、世紀末思想から貴族階級に蔓延した厭世観、ロシア貴族特有の騎士道精神、ロシア的土地主義から切り離された貴族階級知識層のアイデンティティー喪失、キリスト教的自己犠牲の精神・・・等が、渾然一体となって、ロシアの若き知識人の間に独特の倫理観が育まれ、ロシア流テロリズム思想が誕生したのではないかと考えられる。

ジョージとワ―ニャ――対比的テロリスト群像

本書の構図は、テロリズムを構築する2つの柱――自己滅尽の基に醸成された虚無からのテロリズム志向と、倫理的・キリスト教的人類愛からのテロリズム志向の対立に求められる。本書では、熱心なキリスト教徒であるテロリスト・ワーニャが後者を、そして、主人公(ジョージ)が前者を代表する。もちろん、ワーニャもジョージも、サヴィンコフ=ロープシンの分身であり、ジョージはワーニャへの思慕を断ち切れない。後者は要人暗殺計画の実行中に人妻との不倫に走り、その夫を決闘の末、殺害してしまう。この挿話は、後者のテロリズムの目的が何であるのか、革命のためのテロなのかどうかを疑わせるに十分な示唆になっている。死を決意し、自らを「革命」の捨石と自覚してテロを敢行する後者の生き様は耽美的であり、闘争の中、不倫を演ずる姿は理屈抜きに格好がよい。若い知識人がいってみれば、ダンディズムによって、テロに走ったという想像も成り立つ。

しかし、実際の政治過程にあっては、エスエル戦闘団内部が「美的」であったとは言えない。エスエルの指導者がスパイであったことが発覚したことは一度や二度ではなかったし、密告、裏切り、内部闘争もあったと思われる。エスエル自体が秘密警察に操られた組織だったという説もある。テロが帝政内部の権力闘争に利用されたというわけだ。サヴィンコフ=ロープシンがスパイだったという証拠は史料的にあり得ないが、サヴィンコフ=ロープシンが逮捕されずに逃げ切れている点が素朴な疑問として残る。テロリストが変装や偽名を使用しているとはいえ、帝政ロシアの警察組織が一度追い詰め、取り逃がした爆弾所持のテロリストに、直後のテロの実行を許している点が不自然このうえない。

サヴィンコフ=ロープシンはスパイではなかったが、彼のテロは、当局によって事前に察知されていた可能性を否定できない。テロの実行が官許の下だったとしたら、サヴィンコフ=ロープシンの政治家としての評価は下がるかもしれないが、彼が残した文学の価値が損なわれるわけではない。 (2008/07/09)

2008年5月25日日曜日

『新左翼とは何だったのか』

●荒 岱介[著] ●幻冬舎新書 ●740円+税


このような本が書かれ、売られ、世に出たことを悲しく思うし、また、残念でならない。その理由から記す。

(1)新左翼運動とは多数の死者を出した、日本政治史おける特異な運動

まず、確認しなければならないのは、およそ半世紀わたる新左翼運動というものが、日本の近代政治運動史上、他に例を見ないほどの、夥しい死を伴った政治過程であったことだ。著者(荒岱介)が新左翼運動における死者の存在を深く自覚しているのならば、本書のような、軽く、表面的かつ安易な新左翼論が書けるはずがない。「売らんかな」の編集者にそそのかされたとはいえ、かつてブントの機関誌『理論戦線』に多数の「革命論文」を執筆した著者(荒岱介)は、本書を世に出したことにより、その晩節を汚した。

出版社にしてみれば、「新左翼」という本題でこの価格ならば、団塊世代が買うだろうというマーケティングのもと出版したのだろうが、本書のような記述はジャーナリストには許されても、運動家だった著者(荒岱介)には許されない。

本書によると、新左翼運動の内ゲバで命を落とした活動家の数は113人だという。さらに、自殺者、社会復帰不可能な重傷者等を含めれば、犠牲者の数はもっと多い。内ゲバによる多数の死者に、リンチ殺人、国家権力との実力闘争による犠牲者を加えれば、新左翼運動というのは、日本の政治史において、極めて特異な位置を占めることに気づかなければ嘘だ。本書に限らず、新左翼・全共闘関連で出版される書物の多くが、そのことに無自覚である理由がわからない。

(2)若者が新左翼運動に参加した理由が不明確

次に、なぜ多くの若者が新左翼運動に参加したのか、という解明が本書では不十分すぎることだ。新左翼運動の最高揚期である1960年代後半から1970年の初めまで、全共闘を中心に、東京で開催された数回の政治集会には常に5万人近くが結集し、封鎖された学園(大学・高校)は112校にも達したという。

本書では、新左翼運動高揚の理由を、60年安保闘争で既成左翼政党(社共)の限界が露呈したこと、ベトナム戦争の激化、沖縄問題、日米安保条約、公害問題・・・といった政治課題が山積したことと説明しているが、本当なのだろうか。

著者(荒岱介)の分析は、いってみれば、“風が左に吹いたから、若者が左にいった”という説明に過ぎない。ベトナム戦争の悲惨さをテレビ映像で見て反戦に目覚めた若者も多かろう。反戦が良心に基づくものである以上、良心が新左翼運動の出発点だった、という説明は有効だ。

だが、当時の新左翼の指導者は、良心的反戦運動を反革命的と規定していたはずだ。つまり、かつて著者(荒岱介)らが提唱したレーニン主義に基づく新左翼的運動理論からすれば、反戦で目覚めた大衆を世界革命に領導することが前衛党の役割だったはずだ。

だから、“新左翼運動とは何だったのか”という説明については、左に吹いた風を、新左翼前衛党が利用して一時期高揚を見たものの、新左翼各派の前衛党指導者の理論と運動方針が誤ったため多くの犠牲者を出して消滅(自滅)した、ラディカルな政治現象だった――と説明すべきなのであり、それ以外の物言いはまったく不要だ。

余談だけれど、「良心」というものについても懐疑が必要だ。「良心」は左にも右にも振れる。新左翼運動という不幸な政治過程を真に反省する気があるのならば、世の中に吹く風に靡けば、その先に不幸が招来することが大いにあり得る、という結論が導き出されるはずだ。新左翼運動が反省すべきは、世の中の風に靡かずに将来を見通すにはどうすればいいのかを自らといまの若者に問うことだ。これから吹く風は、左へと向かうとは限らない。たとえば、良心に基づき、右に向かわないためにはどうしたらいいのか。その回答の1つが、吉本隆明が指摘した自立であり、北川透が提唱した生活者の思想だった。この2つの提起がいまなお有効かどうかは議論の余地があるものの、当時の新左翼運動批判の代表例として、いまの若い読者にそれらの存在くらいは知ってほしい。

(3)新左翼政党とその「理論家」の罪と罰

著者(荒岱介)のようなかつての新左翼の「理論家」にいま求められるのは、新左翼運動がそのとき吹いた風に靡き、若者に誤った未来を提示したこと、及び、新左翼各派の政党指導者がそのとき提唱した(革命的)世界観、(革命的)運動論、(革命的)人間論、(革命的)未来論のすべてがでたらめだったこと――について懺悔することではなかろうか。

ところが、著者(荒岱介)の書きぶりからは、三派系全学連の運動(10.8羽田、佐世保、王子、第一次三里塚、10.21国際反戦デー)から、全共闘運動までの新左翼運動は正しかったが、それ以降の日本赤軍、爆弾闘争、連合赤軍、革共同の内ゲバは正しくないかのようなニュアンスが伝わる。がしかし、このような書きぶりは、自己正当化にすぎない。三派系全学連の運動と、連合赤軍事件の根は同じものだ。その根とは、新左翼各派の前衛党が内包した病理であり、先述したとおり、新左翼各派の前衛党が提唱した、(革命的)世界観、(革命的)運動論、(革命的)人間論、(革命的)未来論の誤謬に他ならない。

万が一にも、かつての新左翼運動家及びそのシンパが、本書を読んで当時を懐かしみ、本書に書かれた諸々の政治運動に自らが参加したことを誇らしく感じたとしたら、それこそが、本書が世に出たことの大きな罪の一つといわなければならない。新左翼運動は、全共闘運動を含めて、そのすべてが反省の対象となる。新左翼運動が獲得した地平は何もない。新左翼運動の罪を連合赤軍、革共同の内ゲバ、爆弾闘争・・・に転嫁するのではなく、新左翼全体がその生成から発展過程において、共通に内在していたところの誤りを解明しなければ、本題の「新左翼とは何だったのか」という問いに答えたことにならない。

新左翼の当事者が、新左翼に関する、「売れる本」を書いてはいけない。(2008/05/25)

2008年4月15日火曜日

『ゾロアスター教』

●青木 健〔著〕 ●講談社叢書メチエ ●1500円(+税)


 

聖火とは何か

世界中で、北京五輪聖火リレーに対する抗議行動が続いている。その聖火は、プロメテウスが火を盗んで人間に伝えたギリシア神話の話と関連付けられるのが常である。火は人間の知性の喩えでもある。ギリシア神話の中のプロメテウスの話は以下のとおり。

≪プロメテウスはゼウスの目を盗んで火を盗み人間に伝えた。それを知ったゼウスは怒り、プロメテウスを生きたまま野に曝し、野鳥に肝臓を食わせる罰を与えた。プロメテウスは不死であったから、永遠に野鳥に内臓を食われ続ける責め苦を負った≫

筆者は、聖火とプロメテウスが関連して語られるのは後代のことだ、と考える。ギリシア人は、古代アーリア系民族の一派で、彼らの原始宗教に聖なる火を崇める信仰があり、オリンピックの聖火の起源もそこに求められるものと思っている。余談だが、プロメテウスが内臓を野鳥に食われる罰をゼウスから負ったというのは、古代のアーリア人に、死者を曝葬する風習があったことの伝承だとも考えている。

さて、本書のテーマ・ゾロアスター教は、現在のイランに住んだアーリア人の宗教で、日本語で拝火教と呼ばれるとおり、聖なる火を崇拝したことで知られている。「アーリア人」という民族は、世界史上において、ロマンに満ち満ちたもの――少なくとも筆者には、世界史上における最大の関心事の1つ――と言って過言でなく、長年興味を抱き続けてきた。

印欧語族とアーリア人の定義

いまから8千~4千年ほど前、ユーラシア大陸の中央部を原郷とする、ある民族(仮りに「A族」とする。)が理由はわからないが移動を開始した。「A族」の移動先は、(一)イラン高原北部、黒海付近、(二)インド亜大陸、(三)ヨーロッパ-であった。そして、移動先の先住民と融合・定住した。もちろん、原郷にとどまった者もいただろう。彼らは元来が遊牧騎馬民族で、農耕民のような定住民ではなかった。

「A族」が移動後定住した先が特定できる理由は、その言語である。(一)で成立し現在に至るペルシア語、その周辺のアルメニア語、クルド語、そして、(二)で成立したヒンドゥー語等、(三)のヨーロッパ諸言語――ケルト系諸言語、ギリシア語、ラテン語系で後世に完成したイタリア語、仏語…、ゲルマン系の独語、英語・・・には共通性が認められ、各言語は「A族」の言語と融合して形成されたものと推定されている。

「A族」の言語及びそれと融合してできた各言語は、今日の言語学において、印欧語(インド=ヨーロッパ語)」と、また、古代「A族」で話されていた言語を印欧祖語と呼んでいる。

「A族」のうち(一)と(二)が古代ギリシアの歴史家から、「アーリア人」と呼ばれた。「アーリア」とは、「高貴な」という意味で、「A族」は自らを「高貴な人々」と呼んでいたものと思われる。「A族」は、広義の意味におけるアーリア人である。

言語学上、広義の「アーリア人」が移動し定住した各地の先住民の言語の大枠は消滅し、広義の「アーリア人」の言語の大枠が残存している。ということは、広義のアーリア人のほうが先住民族より政治権力上優位にあった、と推定する学者がいる。社会構成上、広義のアーリア人が先住民を支配したと主張しているわけだ。そこから、アーリア人をめぐる誤解と神話が後世に発生した。

人類は、広義のアーリア人の概念を政治的に利用した不幸な歴史を体験している。20世紀、ナチスドイツは、「第三帝国」を担うドイツ人(ゲルマン人)をアーリア人の直系と任じ、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)等を劣等民族として抹殺を図った。ナチスは、ヨーロッパ先住民と融合したアーリア人を征服者=優性民族と考えた。アーリア人という民族名を積極的に使用したナチスは、アーリア人を金髪碧眼の白人種と定義したが、まったく根拠はない。今日、アーリア人を人種的に定義することはできない。

カースト制度が残る21世紀のインドにも、アーリア人=征服者=優性民族の思想が残っている。カースト上位のインド人はアーリア人をインド先住民(=ドラビダ人等)を征服した優性民族と位置付け、色の白いインド人をアーリア人の直系とし、彼らがカースト上位を独占し、低位カースト層を差別するイデオロギーとして利用している。

いまのところ確実なのは、▽ヨーロッパ、インド亜大陸、イラン付近の諸言語の話し手の共通の祖先として、広義のアーリア人と呼ばれる民族が存在したこと、▽広義のアーリア人の祖語が先住民の祖語より優位に保存されていること――だけだと思われる。

かくのごとく、アーリア人という民族概念は、手垢どころか、人類の血にまみれた悲惨な過去を背負ったものとなっているのだが、歴史探求としては、古代アーリア人に係る調査研究は重要であり、本書のように彼らの宗教に関する研究は、ユダヤ=キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教(仏教)の基層として、それらに多大な影響を与えた原始宗教を知るという意味で、極めて重要である。

本書は、先述したようなアーリア人概念の混乱を避けるため、広義のアーリア人を扱わない。著者(青木 健)は、西方(ヨーロッパ)へ移動し独自の発展をとげたアーリア人及びアーリア系の人々、すなわち、現在のヨーロッパ人には関与せず、東方(イラン高原及びその周辺並びにインド亜大陸)に移動後定住した、狭義のアーリア人を扱う。言ってみれば、本書は、狭義のアーリア人の宗教=ゾロアスター教の調査研究である。

ちなみに、現在の「イラン」という国名は、「アーリア」を意味する「エーラーン」の転訛である。後出するが、「エーラーン・シャフル」といえば、アーリア人が住まうところという意味になる。

ゾロアスター教とは何か

管見の限りだが、本書のように平易かつ簡潔に整理されたゾロアスター教の研究書を他に知らない。ゾロアスター教成立を境として、狭義のアーリア人の宗教を知ることは、実は、広義のアーリア人の基層の思想・宗教のみならず、民俗・生活を知るという意義がある。なぜならば、本書が詳述するように、ゾロアスター教は、当時、イラン高原周辺の原始宗教を取り込んで成立したからである。古代アーリア人の宗教を探るということは、ヨーロッパ史のみならず、世界史を考えるうえで、最も重要なアプローチの1つである。

ゾロアスター教とは、どのような宗教なのだろうか。開祖はザラスシュトラ・スピターマ。成立は紀元前12~9世紀、中央アジア~イラン高原東部のことである。ザラスシュトラ・スピターマの教えを大雑把に言えば、「善悪二元論」。善の極には、創造主にして叡智の神・アフラー・マズダー(光)を頂点にして、その下に6大天使を侍らせた。一方、悪の極には、大悪魔・アンラ・マンユ(闇)を頂点にして、6大悪魔を対置した。そして、善と悪が対立・戦闘を繰り広げ、信仰によって善が勝利するという体系を作り上げた。その詳細は後述する。

しかし、ザラスシュトラ・スピターマの単純な二元論では、それまでにあったアーリア人の諸々の神が切り捨てられてしまう。これでは、民衆の支持を得られない。そこで、ザラスシュトラ・スピターマの死後、後継者たちがアーリア人の神々を教祖の二元論と調和させつつ取り入れて体系化したのがゾロアスター教だという。

アーリア人の原始宗教は多神教で、火、風、大地…といった自然神崇拝が主流であったし、古代アーリア人に限らず、原始宗教では日常規範と宗教規範は分離していないため、古代アーリア人の間では、曝葬、最近親婚、諸々の呪術的善行の励行が宗教的規範として行われていた。ザラスシュトラ・スピターマの後継者たちは、こうした民俗的日常規範をゾロアスター教の教義の一環に取り入れた。さらに、世界の終末思想、救世主思想、最後の審判なども、古代アーリア人の原始宗教の影響であり、ザラスシュトラ・スピターマの教えにはなかった。

白魔術儀式

そればかりではない。ゾロアスター教が今日人々を魅了する所以は、それがオカルト的な魔術を伝えるからだろう。それは、以下のとおり、ゾロアスター教呪術儀礼の4分類と呼ばれる。

一.ハオマ草の受益を絞って、聖火の前でアフラ・マズダーに奉げるヤスナ祭式
二.悪の勢力から身を守る一連の浄化儀式
三.古代アーリア人の間で一般的だった人生上の通過儀礼
四.古代アーリア人の間で一般的だった年中行事
これら儀式の詳細は本書を参照していただきたい。

国教化と拝火神殿の成立-サーサーン朝ペルシア時代

サーサーン朝ペルシア(224~651)時代、ゾロアスター教は同朝の国教となり最盛期を迎えた。この時代に経典の整備、教団の組織化等が進んだが、なかで重要なのが、欽定『アベスターグ』の成立だろう。これはゾロアスター教の宇宙観を典型的に示すものなので、本書から引用しておこう。

≪太古の昔、宇宙は善なる光の神アフラー・マズダーの世界と悪なる暗黒の神アンラ・マンユの世界に分離していた。その間に虚空の神ヴァ-ユが挟まって、両者に接点はなかったらしい。しかし、ある時、暗黒の勢力が光の勢力に挑戦して、虚空が消滅し、善悪の要素が混合した。そこから、現在我々が生きているこの世界が生まれたのである。
当初、両者の戦闘は霊的な次元(メーノーグ界)で行われていたとされる。しかし、次第に実力行使に移って、この物質的な次元(ゲーティーグ界)での破滅的な大戦争が勃発した。(中略)ともかく、こうして、アフラー・マズダーは、自らを防衛するためにつぎつぎに善なる創造物を繰り出し、アンラ・マンユは、それを攻撃するべく悪の反対創造を展開した。第一の戦闘は天空、第二は大地、第三は河川、第四は植物、第五は家畜、第六は最初の人間ガヨーマルト、第七は火、第八は恒星天、第九はメーノーグ界の神々と悪魔、第十は星辰で、それぞれの善と悪の創造物が戦う。(中略)
最後に、世界が7つの州として形成され、その中心にアーリア民族が住まうエーラーン・シャフルが存在し、伝説的なカイ王朝がそれを統治したとされる。≫
(※筆者注:「カイ」はギリシア語の「X」のことだが、それと関係があるかどうかは不明。)

欽定『アベスターグ』の第20巻『チフルダード』等で古代アーリア人の神話的歴史が展開されるのだが、最初の人間が球形をしていたり、植物から兄妹が誕生して最近親婚をしたり悪龍が登場したりと荒唐無稽だが、神話としては面白い。そして、ゾロアスター教を象徴するは拝火神殿が、この時代に建設された。

ゾロアスター教の危険な部分

ゾロアスター教には危険な要素がある。筆者はこの宗教を認めない。その理由の1つが「アーリア至上主義」である。ゾロアスター教は古代アーリア人の原始宗教を取り入れたことは本書が指摘するところだが、その中に古代アーリア人の不浄観と清めの意識がある。古代アーリア人は、自分たちが住まう地域=エーラーン・シャフルの外部を悪・不浄の地として差別した。その結界を守るのが聖火だった。

ここで冒頭に掲げた、オリンピックの聖火に戻る。中国共産党首脳陣がゾロアスター教を知っているのならば(間違いなく知っていて確信的なのだが)、彼らは古代アーリア人にならって、聖火でエーラーン・シャフル(中国領土)の外側=他国を浄化しょうと企んでいる。世界の人々はだから、中国の聖火に反対するのである。何がなんでも、中国による世界浄化を阻止しなければならないと。

2つ目は善悪二元論だ。善悪二元論のゾロアスター教は、古代、一神教のキリスト教と厳しく対立したという。だが、西欧キリスト教の基層にある古代アーリア主義がキリスト教に二元論を持ち込んでいる。正統と異端、キリスト教と非キリスト教、十字軍とイスラム教徒、自由主義と共産主義、そして、西欧キリスト教的民主主義とイスラム的過激主義(テロリズム)・・・こうした二元論は、実態と乖離した幻想的善悪二元論に基づいている。

3つ目は、階級制度だ。古代アーリア人社会は階級制度をしいていたのだが、ゾロアスター教もそれを固定化した。本書によると、古代アーリア人は、神官階級、戦士階級、庶民階級――に仕切られていたという。インド亜大陸でアーリア人の宗教として独自に発展したヒンドゥー教もカースト制度という階級を固持した社会であり、イランも三階級社会だという。欧米でも、上流階級(旧貴族階級)、労働者階級、の階級制度が残っている。

前出のとおり、古代アーリア人は、3つの地域に移動した。その1つである、ヨーロッパの基層としての「アーリア性」については、本書では触れられていない。が、ヨーロッパの基層の「アーリア性」がナチズムのような過激な表象とならないまでも、欧米主導の世界に色濃く影を落としているように思えてならない。その意味で、ゾロアスター教への興味は尽きることがない。

今日のゾロアスター教

サーサーン朝ペルシアがアラブイスラム勢力によって滅ぼされると同時に、ゾロアスター教も廃れ、イラン高原一帯の信仰はイスラム教にとって代わられた。

同地域のアーリア人もアラブ系と融合し、さらに後年東方から移動してきたテュルク族(イスラム教に改宗した)とも混合し、アーリア人という民族は滅亡した。そもそも、アーリア人に限らず、21世紀、純粋・単一の人種、民族の概念は幻想にすぎない。

イスラム勢力との融合を拒否した、イラン高原一帯のゾロアスター教徒は、インド亜大陸に移動(亡命)し、現地の人々から、パールシー(「ペルシアから来た人」という意味)と呼ばれ、今日に至っている。

21世紀、全世界のゾロアスター教徒数は、40万程度(イラン3万、パキスタン26万、インド18万、中国不明)と推定されている。 (2008/04/15)

2008年4月6日日曜日

『フランス・ロマネスクへの旅 カラー版』

●池田健二〔著〕 ●中公新書(中央公論新社) ●1,000円(+税)

ロマネスク芸術とは、11~12世紀、北方ノルマン人・イスラム勢力の侵入が沈静化しようやく秩序を回復した西欧社会に花開いた芸術様式をいう。ロマネスクとは、“ローマ風の”という意味だが、ローマ芸術の復興を意味するものでもなければ、キリスト教芸術の全面的開花という説明でおさまりきれる様式でもなかった。

ロマネスクは、中世前期西欧が、(一)キリスト教信仰と西欧の基層であるケルト、ゲルマンの異教的・前キリスト教信仰が並存していたこと、また、その一方で、(二)東方・イスラム文明との接触という、空間的拡大を獲得していたこと、――を今に伝えている。

ロマネスクがキリスト教の信仰拠点である教会・聖堂・修道院等を表現の場として花開いた芸術様式でありながら、西欧キリスト教世界を空間的・時間的に越えたところに大きな特徴があるのであって、この特徴こそ、中世前期の西欧世界においては、キリスト教が絶対的かつ単一的宗教権威でなかったことを傍証するものである。

前出のとおり、ロマネスク芸術を滋養した場所は、まさしくキリスト教だった。教会・聖堂等のファサード部分のタンパン回廊の柱頭・壁面に施された浮彫、天井部分に描かれたフレスコ画、写本などがロマネスク芸術の表現物だった。ロマネスクはキリスト教の布教を制作目的とした。文字が普及していない中世前期においては、キリスト教を布教しようと思えば、まずは口頭による説教に依拠しただろう。その後、教会建立が進むにつれて、聖書の一節、聖人の奇跡等を民衆に示すための布教装置として、浮彫、絵画等が用いられた。そうして、ロマネスク様式がキリスト教布教の流れとともに、西欧一帯を席巻した。

ロマネスク芸術が制作された当時、西欧においては、聖遺物信仰と聖遺物を保有する教会を巡る巡礼が盛んだった。スペインのサンチャゴ教会は、聖人ヤコブの骨を遺物として保有することで民衆の信仰を集め、巡礼の終着地点として発展した。サンチャゴ教会の巡礼に向かう巡礼ルートはフランスのパリを基点としたものがあり、本書に紹介されたフランスのロマネスク芸術は、巡礼地を結ぶ交通の要衝に建立された巡礼路教会のものが多い。

さて、本書では、フランスのブルゴーニュ、オーヴェルニュ、プロヴァンス、ラングドッグ、ルシヨン、リムーザン、ポワトゥー、ベリー、の8地方のロマネスク教会が紹介されている。それぞれに地方並びにその地のロマネスク教会及びそれぞれのロマネスク芸術がもつ宗教的意図の解説が施され、ロマネスク入門書として最もわかりやすいものの1つだろう。

ただ、ロマネスクと西欧の基層信仰とのかかわりについて、まったく言及していない点に不満が残る。本書の対象地域であるフランスは古代ガリアと呼ばれ、ケルト人の支配地域だった。本書にも紹介されている、ベリー地方・オルレアン郊外のサン・ブノワ・シュル・ロワール修道教会の柱頭に施された異形の神像は、先住のケルト民族の信仰が キリスト教に習合したことを証明するものとして、よく知られている。口から伸びている植物の長い茎から、この像はケルトの神・ケルヌーノスであると推測されているのだが、本書ではそのような紹介がない。

また本書には紹介されていないが、フランスを代表するキリスト教の聖地・モンサンミッシェルやサンドニ教会の一部にもロマネスク装飾が残されていて、このいずれもが、ガリア人の聖地だったことが知られている。 (2008/04/06)

2008年4月5日土曜日

『ルポ貧困大国アメリカ』

●堤 未果〔著〕 ●岩波新書(岩波書店)●700円(+税)


横須賀でタクシー運転手殺人事件があった。この事件で逮捕された脱走米兵はナイジェリア国籍だった。このことに違和感を覚えた人は少なくないはずだ。米軍になぜ、アフリカのナイジェリア国籍の人がいるのか、そして、日本で脱走を企てた挙句、殺人事件を起こしてしまったのか。

その答えは、本書に見つけられるかもしれない。徴兵制がなくなった米軍に入隊する者は、▽高卒で職を得られず、生活できなくなった米国の若者たち、▽永住権が取れない移民、▽病気や失業で多額な借金を背負った生活者・・・たちだという。この中には、サブプライムローンの破綻で家を失い多額な借金を背負った人々も当然、含まれるだろう。

ブッシュ政権の米国で吹き荒れる新自由主義経済は、社会に様々なヒズミを生み出した。公共部門で進む民営化により、命・生活に直結する医療費が高騰、ひとたび入院すれば多額の借金を背負う。インフラ整備や自然災害監視の予算が削られ、ハリケーン等の天災が起きれば、下層の人々が真っ先に命を落とし、家を失った人は社会の最下層に追いやられる。それだけではない。過度な競争により失業者が増加し、正規雇用が減少し、ワーキングプア、ホームレスが増加する。

大卒でなければ、まともな職が得られない。経済的に恵まれない若者は教育資金を捻出するため教育ローンを組むか、奨学金を利用する。ところが、卒業しても優良企業に就職できるとは限らない。就職できなければサービス業に時給労働で職を得るか、派遣社員になるしかない。当然、借金は返済できない。こうして、大学卒の多重債務者として、彼らは社会の下層に追いやられる。

そんな彼らの前に登場するのが、軍のリクルーターだ。リクルーターは甘言を弄して若者を軍に誘い、過酷な訓練で彼らを殺人マシーンに変え、イラク等へ送り込む。労働ビザや永住権が取れない移民も、概ね同じような進路をとる。

そればかりではない。米国には軍事専門の派遣会社が設立されており、米国のみならず世界中の貧困層を戦場に送り込んでいる。戦争の民営化だ。戦争派遣社員の仕事は軍事物資の輸送等の後方作戦ばかりでなく、戦闘専門の「社員」までいるという。新自由主義経済が米国国内ばかりでなく、世界を格差社会にし、下層に落とされた人々を兵士として、戦争に送り込む。経済戦争の敗者が、実際の戦争要員である軍(兵士)や派遣社員兵士として、戦場に送り込まれる。ブッシュ政権下の米国~世界には、経済と戦争が密接に関与しあっている。

横須賀の殺人事件の犯人として逮捕されたナイジェリア人が「神の声を聞いた」、と供述したと言われているが、もしかすると、逮捕されたナイジェリア人にPTSD(Post-traumatic stress disorder)の可能性もある。過酷な訓練もしくは実戦経験によって人格破壊され、心に傷を負い、日本で脱走し、人を殺してしまった――可能性がないとはいえない。アメリカンドリームを追って、アフリカから米国までやってきたこの殺人犯は、もしかしたら、民営化が進む米国社会の犠牲者である可能性を否定できない。

さて、本書は、夢の国・米国の実態を詳細に報じた、渾身のルポルタージュ。日本の巨大マスコミ――資金も人材も豊富なはずの――がなし得なかったルポを、一人のジャーナリストが見事にやってくれた。本書のような良質なルポによって、私たちは日本のマスコミが報じない、米国の影を知ることができる。

新自由主義、規制緩和、民営化、構造改革は幻想だ。「良い資本主義」と「悪い資本主義」の2つがあるかのような報道は間違っている。日本の資本主義が米国の資本主義より劣っているわけでもなければ、勝っているわけでもない。日本の株が下がろうと、日本売りが始まろうと、いいではないか。焦って米国の真似をするなかれ。いまの米国を理想としないことだ。

かつて、日本が戦争に敗れてから復興が進んだころ、米国のホームドラマが日本国を席巻した。庭付きの立派な家、大きな冷蔵庫、車、飼われている犬までがでかかった。ハンサムな人格者である父親、美人で心優しい母親、理想の家庭ではぐくまれていく子供たちの成長が、貧しい日本人を圧倒した。1960年代まで、日本人の「理想」が、米国にあった。

ところが、レーガン政権誕生を萌芽にして、ブッシュ政権下の「9.11」以降、急速に進められた臨戦体制下の新自由主義経済政策は、本書に示されたとおり、米国社会の理想的家庭=中間層を破壊した。一握りの富裕層と貧困層に社会を二極化した。そして、先述のとおり、貧困層を兵士として戦場に送り込み、さらに、戦争を国家から分離し民営化するという、究極の戦争システムを構築した。

日本では、この期に及んで、米国が民間活力を使った、理想の「小さな政府」であるかのような幻想が振りまかれている。「米国のような、米国のように・・・」という悪魔の声が、毎日のように、テレビから聞こえてくる。

そのような中、日本でも派遣社員問題やワーキングプア問題が浮上した。日本が格差社会であることは、だれもが認めるところだ。日本政府とマスコミの次の一手は、借金苦の若者を自衛隊に入隊させ、そして・・・でないことを確信でいないことが恐ろしい。
(2008/04/05)

2008年3月31日月曜日

『帝国―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性―』

●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート〔著〕 ●以文社 ●5600円+税

<帝国>という言葉は古くて新しく、<帝国主義>という言葉が新しいようでいて古い。後者については、左翼、マルクス主義陣営では、レーニンの『帝国主義論』に規定され、20世紀初期から中葉までの間、たとえば、“○○帝国主義粉砕”というスローガンで広く流通してきた。ここでいう「帝国主義」とは、国民国家成立前からの欧米列強による第三世界への侵略・植民地主義、国民国家成立以降は、資本主義国家による発展途上国の属領化をいう。大航海時代から第二次世界大戦の終わりまでは、スペイン、ポルトガル、欄、英、仏等の西欧列強が、そして、ベトナム戦争までは、米国が帝国主義国家を代表してきた。さらに、社会主義革命後のスターリン主義国家であるソ連、中国を赤色帝国主義国家と呼ぶこともあった。

前者の代表はなんといってもローマ帝国であろうが、最後の帝国としては、第一次世界大戦後滅亡した、オーストリー=ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)、オスマン帝国が挙げられるものの、帝国は国民国家成立後の近代以降には、地球上に存在していないというのが常識的認識だろう。

では、なぜ、いま(ポストモダンの時代)において、<帝国>なのか。

冷戦終結後、アメリカの一極支配といわれる。だから、いまはアメリカ帝国が世界を支配していると考えるのは早計である。<帝国>をアメリカのヘゲモニー抜きで語ることは不可能だが、アメリカを頂点とした帝国が世界を支配しているわけではなく、帝国は、グローバルなネットワークによって形成されている。帝国はだから、アメリカであり、日本であり、ロシア、英、仏、中国、インド・・・である。

帝国を牽引するアメリカは、英仏等から遅れて帝国主義国家として、アジア(フィリッピン等)の一部を支配していたのだが、帝国主義としてのアメリカの終わりは、1968年、ベトナム戦争で軍事的な敗北が決定した時点だった、と著者は言う。乱暴に言えば。1968年をポストモダンの開始年だと言っていい。

帝国の時代すなわちポストモダンの時代とはどんな時代なのか。

生権力が人びと(マルチチュード)を支配する時代だ。帝国主義の時代の社会は、規律社会と呼ばれる。人びとは、工場、監獄、病院等諸施設に従属することによって、身体的、精神的に馴致させられ生きている。だから、たとえば、労働者が工場を自主的に管理すれば、革命が成就されるという考え方もできた。

一方、ポストモダンの社会は、管理社会と呼ばれる。人びとは生そのものを権力によって管理される。規律社会の産業労働者はフォード主義、テーラー主義に基づき、一定時間で繰り返しの労働に従事し、高い生産性を上げることを強いられた。一方の管理社会における労働者は、時間(オフとオンの差異がない)に縛られず、情動的、情報的な労働――物質的生産に限定されることがない労働に従事する。管理社会は、柔軟で絶えず変化するネットワークにより、マルチチュードの脳を直接的に組織化する。それが、生権力(生政治的支配)の大きな特徴である。ポストモダンの世界を変革する主体は、プロレタリアート(規律社会の産業労働者)から、マルチチュード(生権力に管理された多数者)に変容したというわけだ。

《今日のポストフォード主義的な、情報化した生産体制に対応する労働者の闘いの局面において出現しているのは、社会労働者という形象である。社会労働者という形象には、非物質的労働者の多様な糸が編み込まれている。社会的協働という闘技場は柔軟かつノマド的に生産を行う場であるが、この闘技場にあって、大衆的知性と自己価値性とを結び付けている構成的権力こそが、今日において基調となっているものなのである。言いかえれば、社会労働者の行動目標は、構成を企図することなのである。今日の生産の母体のなかで、労働の構成的権力は以下のものとして自らを表現することができる。すなわち、人間の自己価値化(世界市場全域での万人に対する平等な市民権)として、協働(コミュニケートし、言語を構築し、コミュニケーション・ネットワークを管理する権利)として、そして政治的権力、つまり権力の基礎が万人の欲求の表現によって規定されるような社会の構成として、である。労働の構成的権力は、社会労働者や非物質的労働を組織化するものであり、マルチチュードによって指揮される生政治的統一体としての生産的かつ政治的な権力を組織化するものである――一言でいえばそれは、活動状態にある絶対的デモクラシーのことである。(P.508)》

これが、ポストモダンの革命のイメージというわけか。 (2008/03/31)

『月蝕書簡 寺山修司未発表歌集』

●寺山修司[著] ●岩波書店 ●1,800円+税



60~70年代、疾風怒濤のごとく駆け抜けた寺山修司(1935~1983)――彼の仕事は文学・演劇・映画といった、芸術の各ジャンルを超えた巨大なものだった。既存のアカデミズム・文壇を超えた“アンダーグラウンド”という寺山の仕事場は、時代状況を投影した鏡のようなものであって、特定のジャンルに拘って積み上げられた既存芸術とは大きく異なっていた。

<私>の寺山体験を僭越にも書かせていただければ、寺山の登場~最盛期~晩年に居合わせながら、寺山に関心を示すに至らなかった。彼の詩・評論等については、通俗ぶりが鼻について好きになれなかったし、実験的演劇・映画についても趣味に合わず、それを忌避した。寺山への無関心は、<私>の人生における最大の後悔の1つと言って過言でない。

<私>から遠い存在であった前衛・寺山だったが、唯一の例外が短歌だった。現代短歌の豊饒さを<私>に教えてくれたのは、寺山であった。沖積舎版『寺山修司全歌集』(以下『全歌集』という。)は<私>の愛読書の1つであり、齋藤史、村上一郎、岸上大作、福島泰樹、道浦母都子といった現代歌人の作品を読むきっかけになったのも、『全歌集』の影響だった。

さて、寺山は全歌集発刊を最後に、表向きは短歌創作を休止した。短歌創作休止の理由は、前衛の旗手である寺山が日本の伝統的韻文を創作し続けることは、自身の売り出し戦略にそぐわないという判断が働いたものかもしれないし、短歌という表現形式に限界を感じたからかもしれない。しかし、そのような愚かな推測に反して、寺山が全歌集刊行以降も、短歌創作を続けていたということは、寺山研究では定説であったらしい。

2008年初頭、あまりにも唐突に、『月蝕書簡-寺山修司未発表歌集』(以下「本書」という。)が発刊された。このことは、寺山が短歌を清算しなかったということ――定説の正しさを証明したことになる。

本書についての最大の興味は、寺山が全歌集以降、短歌に新しい企てを持ち込んだか否か――ではなかろうか。本書から、寺山の短歌に対する実験、試行、錯誤、断念、撤退のプロセスを読み取れるならば、という期待はだれもが抱くに違いない。

本書がそのような期待にこたえているかといえば、「ノー」だと思う。本書に掲載された作品の基本モチーフは、全歌集の域を越えない。それゆえ、寺山が未完として、封印した可能性もある。ただ、寺山が短歌創作を継続していたということは、短歌に描かれた世界が彼のアイデンティティであったことの傍証になるかもしれない。

ならば、そこから分岐した寺山の前衛とは何だったのか・・・という問いが、<私>の中で循環する。 (2008/03/31)

2007年3月19日月曜日

『ギリシャを巡る』

●荻野矢慶記〔著〕 ●中公新書 ●1000円+税

ギリシャという国は、高校の世界史では古代文明の箇所で華々しく登場するものの、ローマ帝国の成立後、その記述から忽然と姿を消してしまう。ヨーロッパにおいて、古代、中世、近世のギリシャをイメージすることは、わが国の高校世界史においては、およそ不可能な状況にある。

学校が教える世界史は、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)がギリシア人の帝国であることを明記しない(少なくとも、筆者にはそう教えられた記憶がない)。最盛期におけるローマ帝国の東半分の実態というのがわからないまま、高校生は、ローマ帝国の分裂、西ローマ帝国の滅亡を学習し、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の成立を表層的に学ぶにすぎない。

ビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは395年にギリシャ人がつくった強大な帝国であり、その滅亡を1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノーブル征服とみなすと、極めて息の長い帝国だったことに驚く。

にもかかわらず、ビザンチン帝国を世界史において軽視する傾向は、西欧偏重の歴史学が日本の教科書執筆者に与えた悪しき影響の1つと想像することができる。帝国の国家機構、軍事力、宗教は、同時代の西欧とは一線を画していた。皇帝に集中した権力のあり方、そして、東方教会が果たした役割は、西欧中世の封建制とは異なっている。そうしたビザンチン帝国の詳細は、歴史教科書に載っていない。

帝都・コンスタンティノーブルはトルコ人による小アジア進出、オスマン帝国の建国とともにイスタンブールと改名され、いまはトルコ人がつくったイスラム国家の面影を伝えている。ビザンチン帝国(東ローマ帝国)がつくりあげたビザンチン文化は、東欧・ロシア等の周辺国にその名残を留め、西欧とは趣を異にする、いかにもローカルで異端のようなイメージを与える。

ビザンチン帝国は西ヨーロッパ、地中海世界、オリエント、アジアにどのような影響を与えたのだろうか。この大きな設問に回答できる力量は、もとより持ち合わせていないものの、ビザンチン文化が、カトリック、ルネサンス、宗教改革、市民革命、産業革命へと進む世界史の「正史」とまったく隔たった存在であるとも思えない。

ビザンチン帝国は、成立後のある期間、偶像崇拝を厳しく禁止した。ところが、偶像崇拝を禁ずる聖書の原理主義が帝国に定着することはなかった。むしろ、偶像崇拝禁止令の解除ののち、東方教会においては、それまで以上にイコン制作が盛んになった。

イコンの技法は、ルネサンス以降の宗教画とは異なる。西欧の宗教画はルネサンスを境に、遠近法を取り入れた。遠近法は、ルネサンス期の大発見の1つであり、写真のような宗教画の誕生は、近代に通じる扉の1つでもあった。

その一方、ギリシャ、東欧、ロシアでは、依然として遠近法を無視したイコンをつくり続けた。東方教会のイコンはルネサンス以降の西欧のキリスト教絵画と比較して、稚拙で非科学的かつ野蛮に見えるかもしれないが、イコンのもつ力強いタッチから、そこに東方教会の影響下に暮らす人々の信仰のパワーを感じないだろうか。遠くにあるものを小さく描く必要などない、心の中に大きな比重を占める存在は、遠くにあっても大きく描くべきだ――そう思わないだろうか。だから、イエスキリストに係る物語を絵画で表現するとき、遠近法で描く必要はない。描く者と描かれる対象が分離したとき――信仰と絵画も分離したのである。ルネサンス以降、宗教絵画は滅びた。

さて、本書はギリシャ観光の目玉となる遺跡等の名所、街並みの写真とエッセーである。パルティノン神殿に代表される古代文明、ビザンチン帝国の遺産、オスマントルコの影響、そして今日まで続く、ギリシャの豊饒の歴史をうかがい知ることができる。15世紀、ビザンチンの帝都コンスタンティノーブルはイスラムの手に落ちたけれど、ギリシャ各所には帝国の名残がいくらでも残っている。本書を手にすれば、高校の世界史から忽然と消えた幻の帝国の面影を取り返すことができるかもしれない。もちろん、ギリシャに出かけて、自分の目で確かめることのほうがよい。
(2007/03/19)

2007年3月18日日曜日

『マルチチュード』上下

●アントニオ・ネグリ マイケル・ハート〔著〕 ●NHKブックス ●各1260円

本書は、ネグリ=ハートの3部作『帝国』『マルチチュード』『革命(仮題)』の2作目に当たる。筆者は不覚にも1作目の『帝国』を後から購入したため、順番がおかしくなってしまった。それはともかくとして、久々に本格的な反権力・反米国・反資本主義の書に出会って新鮮な気分だった。

マルチチュードとは何か――本書を手にしたとき、だれもがそう思うに違いない。本書を通読することによりその答えが得られるのだが、イメージを伝える訳語としては、「多数性」という言葉が適当だろう。本書でそうルビがふってあった。マルチチュードは、プロレタリアート、人民、大衆、マス、国民とは異なっている。

本書によると、冷戦後、米国の単独行動主義による世界支配が完成した。その情況とは、国民国家同士による従来の「戦争」は姿を消し、「9.11」以降の「テロとの戦い」という、ボーダレスな内戦状態がグローバルに恒常化され、戦時体制により、民主主義は危機に瀕している。

また、グローバルな新自由主義経済が猛威をふるい、世界の富は北米、欧州、東アジアの一部に偏在し、南の多くの民は飢餓に苦しんでいる。19世紀に誕生した産業労働者(フォーディズム社会)は、20世紀後半から21世紀初頭にかけて労働の主役の座を下り、以降、情動的産業に従事する者(オフィスワーカー、デザイナー、サービス部門労働者等)がその主役となった(ポスト・フォーディズム社会)。つまり、19世紀的な産業労働者であるプロレタリアを率いる党が革命の主体となることはあり得ない。

こうした情況において、マルチチュードが、私的所有に根ざした新自由主義経済(資本主義)を排し、〔共〕に基づく経済の価値に従い、性、国家、言語、宗教等々の差異を前提としてゆるやかなネットワークを形成し結集(するとともに離散)し、多数者のための正政治を実現しようではないか――というのが本書のきわめて大雑把な論旨だろう。著者は、9.11以降の情況について次のように記している。
民主主義の新しい可能性は戦争という障害に直面している・・・現在の世界は全般化された永続的かつグローバルな内戦によって特徴づけられ、この絶え間ない暴力の脅威が民主主義の実現を効果的に阻んでいる。永続的な戦争状態が民主主義を無期限に差し止めているだけでなく、民主主義を推進する新しい圧力や民主主義の可能性の存在が、主権権力の側から戦争という応酬を受けているのだ。戦争は民主主義を封じ込めるメカニズムとして機能している。主権関係の均衡が崩れるにともない、あらゆる非民主的な力がその基盤として戦争と暴力を必要とするようになった。こうして近代の政治と戦争の関係は逆転したのである。戦争はもはや政治権力が限定された事例において自由に使える手段ではなく、戦争そのものが政治システムの基礎を規定するものとなりつつある。戦争が支配の形態となりつつある。(下巻P.238~P.239)
(2007/03/18)

2006年12月11日月曜日

『松下政経塾とは何か』

●出井康博〔著〕 ●新潮文庫 ●700円+税

松下政経塾について考えるということは、野党第一党である民主党について考えることにほかならない。

同塾の政治家のことは、テレビを通じてしか知らない。多くが民主党に属していて、テレビの露出で顔を売り、気の利いたコメントで有権者をひきつけ選挙に当選しようとする魂胆がミエミエだ。ワイドショー、お笑い番組、討論番組、クイズ番組等々、彼らには番組選択の指針がない。とにかく目立てばいい・・・。

国会議員がメディアを通じて、国民に政策等を直接語ることは間違っていない。他党と議論することも正しい。けれど、日本のテレビ番組には真面目な政治番組は少ない。同塾出身のある民主党議員は、テレビのバラエティー番組において、闇勢力との関係を取りざたされたことのある保守系の元国会議員を「センセイ」と呼び、じゃれあっている。こんな情景を塾の創設者である故・松下幸之助は、草葉の陰で何と思うか。

故・松下幸之助が創設した同塾は構想から今日まで、多くの政治家を輩出した。中に国会議員も多数含まれている。その意味で、幸之助の計画は失敗していない。だが、この成果は、同塾の自律的成果とはいえない。本書が指摘するとおり、「政治改革」の嵐が吹き荒れた当時の勢いに負っている。細川護熙が率いる日本新党が台風の目となり、自民党単独政権を倒した。新党に結集した若手議員が同塾出身者だった。今日の隆盛は、その当時の果実をいまなお享受している結果ではないか。

日本新党に結集した若き政治家たちは、“堕落”した自民党とは異なる、真正の保守政党を立ち上げるという野望を抱き、そのとおりの結果を出した、いや、立ち上げるつもりだったと言った方が適切かもしれない。いま思えば、当時の政治改革=小選挙区制の施行は、戦後政治の分岐点だった。

小選挙区・政党助成金等の新制度は、〔自民党〕対〔もう一つの保守政党〕による二大政党制確立を目指したものだったが、日本の革新=社民主義の息の根を完全に止めるという、大いなる副産物をもたらした。日本の革新政党が真に労働者の味方であったかという本質的問題はあるものの、細川護熙が首相として率いた与党連合(日本新党・新進党・公明党)から、自・社・さ連合政権の誕生、さらに、自民党・公明党連合政権の誕生という第ニ波、第三波により、日本の革新政党は概ね死滅した。この激動を縫って、同塾から、若い政治家が国政選挙に当選し、いま、民主党に寄り集まるに至った。これを偶然の妙というべきか、幸之助の陰謀と見るかについては、どちらとも言えない。が、結果として、日本には革新を標榜する政党は存在しなくなり、資本の側に好都合となった。

さて、本書が提供する同塾にまつわる情報のうち、興味深いものの一つは故・松下幸之助の政治への関心ぶりだ。日本有数の電機メーカーの創業者にして“経営の神様”と呼ばれた松下が当時、自民党政権に幻滅していたことが本書から窺える。松下は、自民党について、農を基礎にした土着政党だと認識していたふしがある。幸之助は、メーカー(製造業)にして全国販売網(代理店制度)を構築した経営者だ。彼は、事業者の経営感覚で日本国をマネジメントしなければ日本は滅びる、という危機感をもっていたようだ。それが、政経塾創設につながり、塾から新党結成、政権奪取の構想となった。

本書の冒頭、著者(出井康博)が、引退した細川護熙に幸之助との関係を直接問う場面が出てくる。松下政経塾と日本新党(その前身の「新自由主義連合」)との関係の有無だ。細川はその関係を否定する。この否定はポーズなのか。もし、細川新党が幸之助の影響で誕生したものならば、幸之助の政治への野望は成功したことになるのだが・・・本書の“おもしろさ”はこの一点、すなわち、幸之助と細川護熙の関係の究明にある。細川新党は幸之助の影響下で構想されたのかどうか――については、本書を読んでほしい、だから結論はここに書かない。

もう1つ興味深いのは、同塾と今日の民主党の関係だ。政治改革以降、同塾出身の政治家は、民主党が受け入れるという構図ができあがっている。先述したように、同塾の設立趣旨は自民党に成り代わる政党であるから、塾生が自民党に入党することはあり得ない。せいぜい、新自由クラブ、日本新党あたりまでが受け皿として相応しかったように思う。

民主党は、▽小沢一郎党首に代表される自民党経世会、▽旧民社党(旧同盟系)、▽旧社会党(旧総評系)、▽市民運動活動家、を含む寄り合い所帯だ。同塾に入って政治家になろうとする人間と、市民運動を母体にして政治活動に踏み出した人間や組合幹部から政治家になった人間とが一党の綱領を共有することは困難に近い。これが第一の不幸だ。たとえば、偽メール事件で退陣した前代表・前原誠司は、京都大学のK教授の弟子だ。K教授と言えば、日本版ネオコンだ。メール事件を直接引き起こした永田議員は同塾出身者ではないが、前原誠司・野田佳彦の執行部2人は同塾出身者だった。このときの執行部の無能・無策ぶりは記憶に新しいし、メール事件がなければ、民主党は、BSE問題、耐震偽造問題等々で窮地に追い詰められた小泉政権を打倒できたかもしれない。倒幕の絶好機を塾の2人が逃すという失態をやらかした。同塾出身者は明治維新を理想とするらしいのだが・・・

次なる不幸は、政経塾が金持ちの経営者である松下幸之助の思いつきに端を発し、松下家の後継者問題が塾運営に影響を与え、さらに、その運営が稲盛和夫(京セラ名誉会長)の影響にさらされたことだ。稲盛和夫は、『カルト資本主義』(斎藤貴男著)に詳しく書かれているとおり、極めて特異な経営者だ。本書が指摘するように、松下幸之助、稲盛和夫が崇拝するのは中村天風という宗教家だ。その意味で、松下、稲盛を近代的経営者と呼ぶことに躊躇する。しかも、政経塾が中村天風の影響下にあるパトロンや幹部職員に支えられている現実を無視できないし、民主党の議員にも天風信奉者がいることが懸念される。

天風を崇拝する日本型経営者を近代的経営者と呼ばない。大雑把な話、資本主義的経営すなわち、近代的経営には、徹底した成果主義を価値観とする米国型経営と、労使の取引で経営を進める西欧型(社民主義)経営がある。この2つは相反する外観を見せながら、資本と労働の対立という基本原理を共有している。

一方、日本型経営は労使の対立は会社=家(ウチ)という共同体的概念の中でメルトダウンしている。近代的経営(労使対立型)と日本型経営のどちらが正しいのか、またどちらが働く者(多数)に幸福をもたらすのかについては、いま問題にしない。ここでは、一方(西欧)が近代的経営であり、一方(日本)が共同体的経営にあるということを確認しておく。

結局のところ、政経塾を論ずることの意味は、民主党が働く者の見方なのか、そうでないのかを確認する作業に帰着する。民主党結党の際に、水と油ほども異なる政治信条をもった小沢一郎と菅直人を結びつけたのが稲盛和夫であることを、本書で初めて知った。その稲盛和夫の経営哲学は、社員を「社畜化」することだ。「社畜」というのは、経営者に対しどこまでも従順である労働者のことだ。社畜になれば、労働組合運動はもってのほかだし、労働者の権利も主張せず、経営者に心酔して身を粉にして働く。松下幸之助はそういう意味で、経営の神様だった。稲盛和夫は幸之助を範とした。「経営の神様」という意味は、労働者をマインドコントロールして無力化することだ。松下政経塾は、そのような経営哲学をもった幸之助の発想によって生まれた政治家養成機関だ。そして、同塾で純粋培養された政治家が、日本の最大野党である民主党に参集している。この事実をどう考えるか。

さらに言えば、先述したとおり、民主党結党の裏には、稲盛和夫というカルト資本家がオルガナイザーとなり、小沢一郎と菅直人を結び付けた。この2人の手打ちによって、日本の勤労者圧殺の企みの道が大きく開けたことになる。いま、民主党は野党第一党として、自民党を補完している。民主党の中に労働組織は埋没している。民主党は、労働者を「社畜」として扱う経営者が創設した塾を出た野心家たちによって、牛耳られようとしている。民主党は、ここまで紆余曲折を経ながらも、野党第一党として存在している。その存在理由は、民主党が、日本の勤労者を封じ込める圧殺装置の役割を果たすが故なのだ。

今日、ワーキングプアと呼ばれる最下層労働者の悲惨な暮らしがマスコミに取り上げられるようになった。ところが、本書を読む限りでは、同塾出身の政治家は、選挙のときに役立つか、役立たないかを物事の価値判断にしているらしい。松下政経塾を出た民主党の若手政治家は、ワーキングプアをどう見、どう考えるか。おそらく、彼らにはワーキングプアの存在は目に入っていない。だから、もちろん、考えていない。 (2006/12/11)

2006年12月7日木曜日

三島由紀夫――その生と死

●村松剛〔著〕 ●村松剛 ●500円(昭和46年5月第一刷)


どのような本であっても、読み進めるうちに一箇所くらいはなるほど、と思わせる記述にぶつかるものだ。

本書は三島由紀夫の生前、三島の最も近くにいた、といわれる保守系文化人の一人の手になる三島由紀夫論だが、三島論としては平凡だ。壮士ぶった保守系文芸批評家だった著者(村松剛)だが、三島の自決を知ったときの慌てぶりが尋常でなかったことがうかがえる。三島に同志的つながりを感じていたのは著者(村松剛)ばかりで、三島は村松に決行を知らせなかった。本書を読む限り、決行当時、三島を理解する者は皆無だったようだ。

さてさて、冒頭に記した、なるほどと思わせるのは、著者(村松剛)が三島の戯曲『わが友ヒトラー』を評した文中――「政治というものは、川に橋をかけたり物価を調整したりする技術である。」(P104)という箇所だ。この表現は、著者(村松剛)のオリジナルではないようなのだが、目から鱗が落ちた。

著者(村松剛)は、ヒトラーを芸術家とみなし、政治に美・理念・理想を求めると、とりかえしのつかない誤りが生じるというような意味の記述を続ける。著者(村松剛)はヒトラーの狂気を芸術家という資質に求めている。この見解には賛同しかねるものの、ヒトラー、スターリン、ポルポト、毛沢東らの人類史的な誤謬の根源には、橋をかけること、物価を調整することよりも、人類の理想の追求があったことは間違いない。政治(家)が、美・理想・ユートピア思想から逆規定して現実を修正し始めたとき、虐殺・戦争・粛清が回避できなかった。著者(村松剛)は政治の逆説的メカニズムに気づいている。

このような観点にたてば、戦後の日本の保守政治はただひたすら、川に橋をかけ続けてきたことになる。日本の戦後の保守政治とは、そのような政治であったし、いまでもそうだ。東西冷戦当時、日本は結果的には西側に属したけれど、イデオロギーとして積極的に西側を選択したわけではない。平和主義、自由と民主主義の名の下に、かつての、国体、大東亜協栄圏、国粋的美・伝統文化の継続性も忘れたのが、戦後政治だったし、軍事(武)までも米国に依存した。橋をかけるために、政治は国富から予算を奪い取り、業者間の談合で「物価」を調整してきた。日本人にとって、政治とは技術だった。その結果として、日本人は莫大な富を得ることに成功した。

三島が攻撃したのは、そのような日本の戦後政治のあり方であり、そこにどっぷりと漬かった日本のマルティテュードのあり方だった。三島は戦後の否定者として、まず、日本型政治に規定された自衛隊に代わって、美しい軍隊を求めた。技術に勤しむ日本の戦後政治家に代わって、潔い(美)壮士のごとき政治家を望んだ。

いま、「美しい国」という政治のキャッチが新しい。政治に関して、美を求める政治家が登場したとするならば、日本人は全体主義の到来を覚悟しなければならない。だが幸いにして、「美しい国」を掲げる首相は凡庸であり、ヒトラーのような「芸術家」ではない。このキャッチフレーズはまやかしである、幸いにも。 (2006/12/07)

2006年12月3日日曜日

21世紀のマルクス主義

●佐々木力〔著〕 ●ちくま学芸文庫 ●1,300円(+税)


わが国では、企業は過去最高益を記録する好景気にもかかわらず、労働者の暮らしはいっこうに良くならない。どころか、残業代カット、リストラ、医療費等の負担増で苦しめられている。若者にまともな働き口がなく、パートや派遣といった劣悪な労働条件で雇用されている。下流社会、下層社会、格差社会が固定的に形成されようとしている。

一昔前なら、こうした状況は、搾取という概念で説明されたものだ。労働者は搾取されていると。賃金、雇用、労働条件等の決定のメカニズムは、[企業(ブルジョアジー)]対[労働者(プロレタリア)]の階級対立という概念だ。ところが、20世紀末、ソ連・東欧の自由化による、「社会主義国家」の消滅以降、わが国においては、社会主義、マルクス主義の思想的潮流は完全に消滅してしまった。もちろん、階級対立の概念も、喪失してしまった。新自由主義経済、市場万能主義が幅を利かせ、「勝ち組」と呼ばれる一握りの資本家に富が集中する社会を容認するムードが、徐々にだが間違いなく人々の心を覆っている。

一方、消滅した旧社会主義国家のソ連はロシアと名乗り、自由と民主主義を旨とする国になったはずだが、現実には、政府を批判した複数のジャーナリスが殺害されたり、国家機密を知る元情報部員が亡命先のイギリスで暗殺されるという、恐怖政治が支配する国になってしまった。いまのロシアは、旧KGB幹部であるプーチン政権下、自由と民主主義どころではない。マフィア、秘密警察と結託した、暗黒国家になってしまった。

自由と民主主義のリーダーであるはずの米国は、国内的には人種差別、治安悪化、富の独占という諸問題を抱えたまま、国外では、対テロ戦争という大義名分の下、持続的侵略戦争国家へと変貌してしまった。ブッシュ政権の米国こそ、典型的な帝国主義国家と規定できる。

資本主義の矛盾が露呈する今日、そして、地球規模の(グローバルな)帝国主義の時代にあって、ロシア革命を成功させたレーニン主義、トロツキイ主義、そして、その原理としてのマルクス主義による、反帝国主義運動の再編がグローバルに求められている。

さて、著者(佐々木力)は、21世紀初頭、「9.11事件」以降の世界情勢を、米国帝国主義という野蛮と、それに抗する反米テロリズム勢力という野蛮――の軍事的対立の構造にあると説明する。この説明は極めて妥当だと思われる。イスラム勢力の一部が米国帝国主義に対して、“聖戦=テロリズム”を展開している現実をだれもが認めざるを得ないものの、それは“野蛮”に抗する“もう一つの野蛮”であって、けして、帝国主義を止揚する思想と運動になり得ないと。

20世紀、第二次世界大戦の終結を境として、世界は帝国主義国家(資本主義)群と労働者国家群の対立――冷戦の時代として構造化された。この構造の一方の極である労働者国家群(東側)の指導的立場であったのがソヴィエト連邦であった。ソ連は1917年、帝政ロシアを革命によって打倒して誕生した社会主義労働者国家だった。以降、今日まで、ソ連、共産主義・社会主義、マルクス主義は同義とみなされている。

ところが、ロシア革命後、レーニンの死後、ソ連共産党を率いたスターリンが行った政治は、マルクス主義、共産主義とは無縁の全体主義だった。その政治システムをスターリン主義と呼ぶ。スターリン主義国家はソ連を筆頭にして、東欧、アジア、アフリカにまで誕生したものの、今日、それらの国々の体制は変容し、東アジアの社会主義の大国である中国も「社会主義市場経済」を採択し、事実上、世界は資本主義体制に概ね一元化されている。こうした事象をもって今日、共産主義、マルクス主義イデオロギーは消滅した、と言われている。

著者(佐々木力)も、20世紀末に消滅した労働者国家群(東側)を、マルクス主義とは無縁の全体主義国家(スターリン主義国家群)と規定する。この規定は、特別新しいものではない。1960年代後半、先進国と呼ばれる資本主義国家群(西側)でスターリン主義批判が相次いだし、労働者国家群を構成する東欧(東側)で、「ハンガリー革命」(1956年)と「プラハの春」(チェコスロバキア、1968年)という、2つの反ソ運動が起きている。日本では、1960年代初頭に日本共産党と決別した新左翼政党として、共産主義者同盟、革命的共産主義者同盟等が結党され、60年代後半に全共闘運動等の新左翼運動が展開された。米国、西欧においても、同様の運動が展開された。しかし、西側先進国で相次いで台頭した反スターリン主義政治勢力は、自国帝国主義政権の打倒に失敗したことはもとより、旧左翼・社会民主主義勢力を凌駕するに至らないまま自壊した。また、先述した東側における反ソ運動も、ソ連の軍事力に押さえ込まれ、指導者は投獄され、スターリン主義政府打倒の達成までに20年の歳月を費やした。

とりわけ、日本の反スターリン主義運動は、運動の過程で自らをスターリン主義に純化するという誤謬を犯し、大衆の信頼と支持を失ったまま今日に至っている。この部分の十分な反省がなければ、マルクス主義の復興は至難の業だといわねばならない。

抑圧された反ソ運動のエネルギーは1989年~90年代初頭の自由化運動として花開き、ソ連、東欧は、ときの「社会主義」政権打倒を成し遂げた。ところが、ソ連の民衆はスターリン主義政府打倒(自由化)を実現したものの、その後の望ましい国家体制として、経済の自由主義原則である「混乱した資本主義」を選択するにとどまった。その結果、自由化の名のもとに急激な競争社会が形成され、新たに誕生した国家は▽国家権力を奪取した一部政治家、▽自由競争下で急成長した一部資本家、▽秘密警察の残党、▽マフィア――らによって構成された、ならず者国家であった。先述のとおり、ロシアでは、プーチン政権を批判するジャーナリスト等が秘密警察の手によって暗殺されている。これらの勢力は自由化の名のもとに国家権力を奪取したのだが、彼らが行っている政治は、旧体制(スターリン主義)の時代に培った自由化圧殺のノウハウを駆使して民衆を抑圧・弾圧し、ジャーナリスト等を抹殺する恐怖政治にほかならない。そればかりではない。ロシア政府(プーチン政権)は、チェチェンにおいて、ロシア政府に抗する多数の民衆を、民族浄化にも等しい大規模な軍事行動により圧殺している。

本書が「新左翼」と呼ばれた、反スターリン主義勢力のマルクス主義解釈と異なる点はどこか。著者(佐々木力)はロシア革命後のソ連がスターリンの指導の下、社会主義とは似て非なる体制に変容したと認識する。その点は、新左翼と変わりない。そして、スターリンに追われたトロツキイの「永続革命」を基本とする点で、著者(佐々木力)は、トロツキストの流れを汲む。

経済政策としては、ロシア革命後のネップを容認するものの、スターリンの「新5カ年計画」を統制型経済(=スターリン・モデル)と批判し、それに代替するものとして、トロツキイが提唱した、生産者+消費者(市場)の自立性を保証した「トロツキイ・モデル」による社会主義経済の選択を挙げる。また、政治システムとしては、「プロレタリア独裁」を根源的民主主義、プロレタリア民主主義として再定義する。さらに、資本主義に対する今日的対立軸として、環境社会主義を掲げる。これらが、著者(佐々木力)の言うところの、21世紀のマルクス主義の大雑把な新解釈となるであろう。革命の主体についても触れておこう。マルクスは革命主体を19世紀の労働者に限定して求めたが、著者(佐々木力)は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが論じた、グローバルなマルチチュードを、マルクス主義革命を担う者として想定しているようだ。

先述したとおり、現在の日本において進んでいる経済、労働に係る諸現象は、階級対立の概念でなければ説明ができないし、解決の糸口が見つからない。このような中、マスコミ(田原総一郎を筆頭に)は、マルクス主義、社会主義の死滅ばかりを強調し、労働組合運動までも誹謗中傷する。もちろん、日本の労働運動に非がなかったわけではないが、組合運動は働く者の基本的権利の1つだ。マスコミ及び反動的コメンテーターの言説は、搾取を容認し、弱者を切り捨て、帝国主義を支持するものだ。彼らは、「悪い資本主義」を批判し、「良い資本主義」を見つけ出そうとする。が、「良い資本主義」はこの世に存在しない。

南米に誕生した反米政権、ヨーロッパの根強い反米社民主義、東アジアに生まれた新経済圏構想などなど、グローバルに見ると、米国の帝国主義に追随しない勢力が、微小ながら認められる。この先、マルクス主義復興はないとは言えない。 (2006/12/03)

2006年11月23日木曜日

ゴシックとは何か

●酒井健〔著〕 ●ちくま学芸文庫 ●900円(+税)


先に当コラムで取り上げた『中世ヨーロッパの歴史』の書評において、ホイジンガが中世という時代をフランボワイヤン(火焔様式)ゴシックにたとえた一文を紹介した。では、ゴシックとは何か――そこに関心が向かうのは当然のこと――それが本書を購入した理由にほかならないのだが、本書は誠に示唆多き書。いろいろな意味で勉強になった。己の無知蒙昧・思い込み等を本書によって、訂正させられた次第。以下、本書から学んだポイントをまとめてみよう。

著者(酒井健)は、ゴシック様式とは先住ヨーロッパ人(ケルト人、ゲルマン人)による、森(大自然)の再現だという。この指摘が、ゴシックの本質のすべてをあらわしているように思える。自然を模した装飾をキリスト教会に取り入れる手法は、先のロマネスク様式に始まっていた。そこでは、怪獣・精霊、乱茂する草木、異教(自然神)の神像等が、キリスト教会堂の柱頭やタンパンに装飾されていた。今日、ロマネスク教会を訪れれば、キリスト教会でありながら、キリスト教以前の異教の面影を発見することができる。

ロマネスクからゴシックに移行すると、教会堂の外観に飛躍的変化が訪れる。ロマネスク教会は、ずんぐりとした丸みを帯びた低層の建物だが、ゴシック大聖堂は、高く、巨大な建築物に変化する。ゴシック大聖堂は、建物の一部が森の高木を象徴し、内部が森の中を、そして、森に満ち溢れる霊性を備えた者たち――例えば、想像上の怪獣・精霊、乱茂する草木、自然神等が外観、内装の装飾によって付加される。ゴシック様式の建築物は、ロマネスク以上に、森という原始ヨーロッパ人が抱いた信仰の原点を強力に表現する。

キリスト教信仰の拠点であるはずの大聖堂が、なぜ、異教的なのか――11世紀、フランスの人口の9割が農民で、彼らの信仰はキリスト教(表向きキリスト教であっても)以前の自然信仰者だった、というのがその答えだ。

12-14世紀、ゴシックの時代の中世ヨーロッパ人の信仰は、キリスト教布教前の自然神、偶像崇拝にとどまっていた。だから、教会側は彼らの信仰を尊重しキリスト教を習合させた。その代表例がヨーロッパに広く分布するノートルダム教会だ。ノートルダム信仰は、古ヨーロッパにあった地母神信仰の変容だ。キリスト教の普及に伴い、地母神信仰は聖母マリア信仰として確立した。聖母マリア信仰は、各地にノートルダム寺院を誕生させたのだが、それはゴシックの時代に重なっている。ノートルダムを直訳すれ、“我々の婦人”という意味になるが、聖母マリアのことを指す。

ゴシック以前、ロマネスク教会は農村部に建立された。一方、ゴシックは都市に建立された。前者の信仰者は農村に住む農民だった。ゴシックの時代になると、人口増加に伴う農民たちは、概ね開墾が終了した農村部を追われ、都市に流入した。そして、故郷の自然への憧憬の念は、自然崇拝を基にした大規模な大聖堂に吸い寄せられた。それが、ゴシックの時代の信仰の基調をなした。

都市に花開いたゴシック大聖堂は、キリスト教布教の根拠であると同時に、都市の匿名の民衆の祝祭の場だったという。大聖堂でいったい何が執り行われていたのか。中世の都市では、日々、演劇的・祝祭的日常を送っていた。大聖堂では、たとえば、そこに仕える司祭さえもが、都市民衆の笑い・嘲笑の対象だった。ヨーロッパ文明の源の1つとしてキリスト教が挙げられるが、かの地に根付いた“キリスト教”が異教的要素を抱えたものであることを知る。

さて、ゴシックとは、“ゴース人(の)”という意味であることはよく、知られている。「ゴース人」は日本の教科書では「ゴート人」と書かれることが多いが、「ゴース」「ゴート」はもちろん同一だ。命名者は、ルネサンス期のイタリア人だった。ところが、実際のゴシック建築は12世紀ころのフランス北部に起源を発する様式で、その後、14世紀にかけて、フランス各地、ドイツ、イタリア、スペイン等に伝播した。その作業を担ったのは各地の諸族であって、ゴート人ではない。

ゴート人とは、5世紀、フン族に追われて東方からローマ帝国領内に侵入したでゲルマン系民族の1つ。西ローマ帝国を滅亡に追い込み、イタリア、スペインにそれぞれ東ゴート王国、西ゴート王国を建国したが、遅れてヨーロッパに侵入を開始したフランク族等及びイスラムによって滅亡させられた。12-14世紀にゴシック大聖堂を建立したヨーロッパ人は、同じゲルマン系であるが、ゴート人ではない。

ルネサンス人はなぜ、そんな基本的誤りを犯したのか。その誤解・誤記はどこから来たのかというと、ルネサンス期のイタリア人がゲルマン系の美術様式を軽蔑したことだという。“ドイツ人”と“ゴート人”はルネサンス人にとって同義だと。彼らの美意識にそぐわない北方様式は、すべてドイツ起源であり、ドイツ人とはすなわち、ゴート人なのだというのがルネサンス人のゴシック評価だった。

ルネサンス人の美の理想は、比例、均衡、均整、合理主義だった。ゴシックは有機的大自然を模倣した様式だった。だから、ルネサンス人はゴシックを忌み嫌った。ルネサンスを代表する表現様式に遠近法(一点透視法)があるが、この技法はまさに、外観(美)を比例の関係に求めたものだ。それだけではない。一点透視法の発見は、客体(対象)と主体(芸術家)の分離を前提にしている。中世美術では、対象を描く主体は対象の内部にあって外部にない。だから、事物はすべて同じ大きさで描かれるか、特別な意味を持つ対象が大きく描かれる。

ところが、ルネサンス期になると、主体は対象の外に立ち、遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく描かれるようになる。描く主体と描かれる対象は分離する。遠近法の定着と主客の分離こそ、芸術家の誕生にほかならない。芸術家=個人は、自然、モノ、自然神の帰属から離れ、独立した存在として、世界を描く。対象から、主体が独立すること、すなわち、芸術家の発生だ。それまでの表現者は、建築技術者、技能者、職工であって、自然、神、支配者・・・に帰属していた。それが、ルネサンス期になると“芸術家はそこから独立した。権力者から援助を受けていても、表現は自由だった。ルネサンスが“人間主義”と呼ばれ、近代へと通じる所以だ。もちろん、ルネサンスの“人間主義”は近代以降の個人主義とは異なるけれど、ゴシック批判・反発が中世の終焉を告げているともいえる。

本書読了後、かつて観光で訪れたゴシック大聖堂の数々――ノートルダム寺院(フランス・パリ)、ミラノ大聖堂(イタリア)、ルーアン大聖堂(フランス)、サンサヴァン大聖堂(フランス・サンマロー)、ブルゴス大聖堂(スペイン)、レオン大聖堂(スペイン)・・・の威容かつ異様な姿が思い浮かぶ。
(2006/11/23)

2006年11月17日金曜日

村上春樹はくせになる

●清水良典〔著〕 ●朝日新書 ●720円+税


村上春樹論には難解なものが多いが、本書は平易であり平凡に近い。新書という制約か。いままで論じられた村上論の範囲内にある。本書の村上論を以下、4項目にまとめておこう。

時代とともに変化する作風

著者(清水良典)によると、村上春樹は時代とともに変容できる作家だという。戦後を大雑把に区画する事件と村上作品とを照合してみると、

・全共闘運動=1970年前後=『風の歌を聴け』~ほか

・バブル経済=1990年前後=『国境の南、太陽の西』~ほか

・阪神大震災、オウム事件=1995年以降=『アンダーグラウンド』『約束された場所で』『神の子どもたちはみな踊る』

・9.11事件=2001年以降=『海辺のカフカ』ほか

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』等(3部作)は、全共闘運動及びほぼ同時期に起こった文化運動の退潮及びそれに参加した若者の退行的気分を扱ったものだった。だから、村上春樹を全共闘作家と呼んだ文芸評論家がいたし、いまもいる。また、村上自身もその体験を持続的テーマとして選び取っていることと思われる。つまり、その作風は時代を回避する姿勢だった。

ところが、バブル経済の崩壊以降の地震、オウム事件を境にして、村上は突然、社会に関心を持ち始め、大事件に関連した作品を発表する。

そしてその次の変化は、2001年の「9.11事件」の勃発を契機としている。この事件を境に、村上は、米国が進める「戦争」に諦念を抱く世界規模の「大衆」の気分を「癒す」作風に転換する。『海辺のカフカ』の発表だ。本書は『海辺のカフカ』に寛容だが、この作品が売れ出したころ、批判的な評論が続出した。

村上作品に共通するもの

村上の小説に出てくるキャラクターに共通するのは、欠損の感覚、言語に対する不信の表明、精神の不安、心の病・・・をもつ人であり、自殺者、死者も多い。しかも、小説の舞台には、生と死の境界のようなイメージが漂っていて、生者と死者の境界はない。世界は「この世」「こちら側」と「あの世」「向こう側」に設定されていて、二つの世界の往来は自由。小説は現実のようであり、夢のようであり、現実と幻想・空想はあいまいなままだ。現代のおとぎ話、寓話(アレゴリー)ともいわれる。

そればかりではない。理性や科学で説明できない闇、暗黒、偶然性といったブラックホールが準備されている。

登場人物は、ジキルとハイドであり、両性具有者であり、自己であると同時に他者であったりする。
小説の中に組み込まれた謎解きのような仕掛け、暗喩、直喩、象徴も村上作品の特徴だ。“これは、もしかしたら、あのことかもしれない・・・”と、読者が自由に想像する楽しさが散りばめられている。だが、ミステリー作品のような確かなロジックに貫かれているわけではない。謎解きの仕事を作者が放棄しているため、その意味で、“イメージの垂れ流し”という批判を免れない。

村上春樹と日本の文壇

日本の文壇と無縁の作家というのが村上の特徴らしい。著者(清水良典)は、村上の作品の転位は、村上が東京~米国~東京と転居したことと結び付けられるという。村上の日本脱出は、日本の文壇(出版社と作家の関係を断ち切る。日本の文学は出版社からの受注生産だという。)との空間的遮断が目的であり、そこでの創作活動が成果を上げた後、再び日本及び日本語への回帰を果たすため、帰国し今日に至っているというのだ。

「9.11」以降

村上春樹に限らず、いかなる作家も「9.11」以降の世界の行く末を予言することはできない。作家は、時代に漂う気分を作品化することはできるが、世界を直接変える仕事をするわけではない。
著者(清水良典)は村上の近作、『アフターダーク』に今後の村上作品の方向性を読み取っている。著者(清水良典)がそこで持ち出したキーワードは、「回帰」だ。どこに回帰するのかといえば、1970年前後の日本ではないか、という。この「予言」は当たるのだろうか。
(2006/11/17)

2006年11月16日木曜日

性と暴力のアメリカ

●鈴木透[著] ●中央公論新社 ●840円(税別)


アメリカ合衆国における性と暴力を考察した書だ。筆者(鈴木透)は、現在の米国おける性と暴力について、両者に共通する原理及び相互関係を見出そうとする。著者によると、ヨーロッパから米国にやってきた移民たちは、広大な未開拓の大地を処女に見立てた。米国の性と暴力は、広大な処女地を開拓した開拓民の精神と肉体の記憶に求められるという。

もちろん、それだけではない。性については、建国期、英国から移住してきた清教徒(ピューリタン)の性に対する謹厳な態度と、英国のヴィクトリア的伝統である、「女性は家」の慎ましさの強制の伝統が土台となっている。また、暴力については、連邦政府の統治が行き渡らない開拓地では、私法、私刑、民間武装、自警団の伝統が根付いた。

新大陸における移民による国づくりという、特殊な国家形成を為した米国だが、今日まで、性と暴力とでは、まったく異なる道を辿っている。性については、性の解放に向けて(もちろん、革命と反動の振り子現象を繰り返しつつも)、概ね解放路線で進捗している。米国における性の課題といえば、人工中絶、同性愛、異人種間(黒人と白人等)の性愛、女性の社会進出、離婚問題等であろうが、これらに対する社会の関心度、マスコミの取り上げ方、議論の仕方、法制度の整備の状況はきわめて公明正大であり、かつ、まともである。

ところが、暴力となると、まったくといっていいほど、制御に向けた動きは封じられる。著者(鈴木透)がいうように、暴力の突出した形態を戦争だとするならば、独立戦争以来、メキシコ戦争(カリフォルニアを強奪)、南北戦争と続き、その後、20世紀初頭まで続いた孤立主義を経て、第一次大戦参戦、第二次大戦(その後の朝鮮戦争を含む)、冷戦期における核兵器開発、中東戦争、ベトナム戦争、パナマ侵攻、そして、21世紀に入ると、「9.11」以降の対テロ戦争(アフガン、イラク侵略戦争)まで、戦争を続けている。こうした、米国の直接的軍事行動を、開拓時代の死刑の伝統で説明できるのだろうか。

20世紀以降の米国の軍事行動は、米国経済に占める軍事産業の割合の増大と関係しているのではないか。米国経済、米国社会が軍事産業への依存度を高めるに従い、米国の世界規模での暴力(戦争)が恒常化したのではないか。軍事産業の拡大が地域の雇用を増大させ、地域経済を活性化させている。米国経済・社会は、軍事産業抜きには立ち行かない。

もちろん、米国の「草の根」暴力主義は、銃器野放し状態の「銃社会」が象徴する。性が連邦政府の権限拡大に伴い、解放に向かったにもかかわらず、連邦政府の権限拡大は、暴力規制=銃規制にはまったく機能しなかった。その理由は何か。米国民がいまだ、二挺拳銃のカウボーイ意識を引きずっているとは思えない。なぜなら、新大陸開拓の移民国家である、カナダ、オーストラリアは、銃を完全に規制したからだ。連邦政府の権限拡大は、米国を専軍政治=軍事産業依存型経済体制=軍事国家に変貌させた。そして、暴力の場を世界に拡大させた。その原因は、おそらく複合的な要素の結合だろう。それを解明しなければ、米国の暴力の源泉を解明したことにならない。

なお、米国の自警団、テロ集団として、KKKと並んで特記すべき存在として、「ブラック・リージョン(黒い軍団)」を挙げておきたい。米国の暴力を扱う本書で、まったくその存在に触れられていないのは誠に残念だ。

「ブラック・リージョン」とは、1030年代、米国オハイオ州に生まれた秘密結社。元KKKメンバー、反共産主義者、人種差別主義者らで構成された、ナチスを髣髴とさせるカルト集団。黒いマスクと黒の法衣のようなコスチュームに身を固め、ユダヤ人、黒人、カトリック教徒を「米国の敵」と看做し、テロの標的とした。不況下のデトロイトに進出し、右翼的大企業であるフォード社らと結託し、多数の労働組合幹部を殺害した。

「ブラック・リージョン」の構成メンバーは、警察官、政治家、裁判官、公務員等の社会の中枢に属する層に浸透したが、ある殺人事件をきっかけに米国社会がこの組織暴力を追い詰めるに至る。裁判で関係者が有罪判決を受け組織は壊滅するものの、連邦政界との関係は不問にふされ、さらに構成員名簿がいつの間にか消失するなど、不可解な部分も多い。

「ブラック・リージョン」を通じて、1930年代の米国に、ナチスドイツと同質のファシズムが台頭していたことを窺い知ることができる。「ブラック・リージョン」を知る人は、第二次大戦直前の米国を「反ファシズム」「自由と民主主義の国」と言い切ることに、躊躇を感じる。「ブラック・リージョン」のテロがおさまってから10数年後、日本を占領した米国もまた、ファシズム体質を宿す国だったのだ。戦後日本における、米国=民主主義国家という幻想(=無媒介な米国崇拝)も、民族主義的反感も、どちらも危険というほかない。

いまや、米国はまさに、「ブラック・リージョン」に染まったた感がある。
(2006/11/16)

2006年11月3日金曜日

『中世ヨーロッパの歴史』

●堀越孝一[著] ●講談社学術文庫 ●1350円(税別)

中世ヨーロッパが停滞の時代、暗黒の時代と呼ばれたのは遠い過去のこと。いま中世が活力に満ち溢れた躍動的時代として、現代人を魅了する。

ヨーロッパ中世の見直しは、理性、自然科学、国民国家を柱とした近代・現代の反措定の意味をもっている――現代の閉塞状況は、中世という不動の体系を尋ねることによって、抜けられるのではないか――現代人は中世に羨望を抱きつつ、その面影を残すヨーロッパの古い街並みを旅することを好む。もちろん筆者もその中の1人。

ヨーロッパ中世の成立は、西ローマ帝国の滅亡(476)、ゲルマン系フランク族の王クローヴィスのカトリック改宗(498)に始まる。5世紀をもって、ヨーロッパの中心軸が地中海から内陸へと徐々に移動を開始する。北方から移動したゲルマン諸族が内陸に分権国家を築き、軍事的俗権と、汎ヨーロッパ的教会権力という聖権の結合が進む。

北方民族の移動は8~9世紀のノルマン人の侵入をもって、また、東方からの侵入は9世紀のマジャール人の侵入で一段落する。ヨーロッパ世界はイスラム、モンゴル、トルコといった台頭する非キリスト教圏勢力との緊張を保ちつつも、10世紀以降、安定期を迎える。その時代、ヨーロッパは十字軍という、聖(キリスト教信仰)と俗(軍団)が二重化した騎士団を組織して、東方へと膨張する。

14世紀中葉の黒死病大流行が中世の終わりを告げた。人口の30%近くを失うという自然災禍の発生は、これまでヨーロッパ中世を支えた物質と精神の両面に変容を強いた。前者は古代・中世に貫徹していた、「もの」本位の経済を衰退させ、貨幣本位の経済を促し、同時に諸侯分権から国王への権力集中を加速させた。また、後者については、教会の絶対的権威への懐疑が深まり、信仰の内面化を進めたかもしれない。中世の終焉を黒死病の流行に一元化できないにしても、その影響の大きさをだれも否定できない。

本書はヨーロッパ中世の魅力を伝える格好の入門書。著者(堀越孝一)は、ヨーロッパ中世について、ホイジンガを引用して、フランボワイアン・ゴシックにたとえる。フランボワイアン・ゴシックとは火焔様式と呼ばれるゴシック建築の一様式をいう。その姿は自然物と想像力とに彩られた外縁の装飾性を特徴とする。ヨーロッパ中世のたとえとしては、まさに核心をついている。フランボワイアン・ゴシックを見た者もまた、中世世界の不思議な魅力にとりつかれてしまうに違いない。
(2006/11/03)

2006年9月18日月曜日

『三島由紀夫文学論集1』

●三島由紀夫〔著〕 ●講談社文芸文庫 ●1300円+税

三島由紀夫は好きな作家ではないし、作品も余り読んでいない。だが、いつも気になって仕方がない存在である。その理由は、言うまでもなく、三島が自衛隊市谷駐屯地に突入して、割腹自殺を図ったからである。その理由、その精神状態、その思想的根拠については、まだ十分に議論されていないし、不明な部分が多いように思う。方法としての「死」という論法に苛立ちを覚えるのである。

三島由紀夫はテロリストではない。彼は突入の日、だれも殺さなかったばかりか、傷つけてさえいない。「憂国の士」を気取りながら、三島は「2.26事件」の青年将校とは異なっていたし、彼が『奔馬』で描いた神風連や主人公(勲)とも異なっている。三島の死は、政治的脈絡ではなく、文学的な帰結だと考えられる。

三島の文学評論の中で、最も注目すべき作品が『太陽と鉄』である。本書は難解で理解しにくい。その理由は、評論という体裁をとりながら、はなはだ論理的ではないからである。

本題の<太陽>と<鉄>とはそれぞれ何か。

太陽との出会いは2度あったという。1つ目は1945年の敗戦の夏。三島15歳のときだった。部屋に篭り書物を読みふけり、夜を志向していた少年時との決別の瞬間である。そして2つ目は1952年、海外旅行へ出たときの船の上甲板で見た太陽だという。いずれの太陽も、夜=思考に対する反措定にほかならない。

鉄とは、三島が打ち込んだボディビルの用具――ダンベルやベンチプレスなどのウエイト器具のこと。三島はウエイトトレーニングを自らに課し、筋肉隆々の肉体を築き上げ、さらに剣道に熱中した。トレーニングで使用する鉄塊の量が増した分だけ、自分の筋肉の量が増えていく、と三島は本書に書いている。

太陽も鉄も、三島独特の反知識人論の象徴だと考えられる。1950~60年代の日本では、とりわけ文学者、作家・・・総じて知識人といわれる人種は、文壇に属し、夜な夜な酒を飲み、青白き「インテリ」というのが相場だった。思考=言語とはすなわち書物であり、書斎から生まれるものだった。三島はそれを太陽と鉄によって、否定して見せたわけだ。

しかし、そういう知識人のあり方、思考と肉体の関係が、実際の思想形成や作品創意に対して、どのような影響を及ぼすかについては、実際には論証しにくい。筋肉がつけば思想や創意が変化する、あるいは人間精神に変異が生ずるという実証は難しい。三島の太陽と鉄が、“健全なる肉体に健全なる精神が宿る”というような、卑俗な肉体精神主義と選ぶところがなくなる。少なくとも、本書でその関係が論証できているとも思えないのであって、そこが、本書の難解さの所以となっている。

本書には、三島の思想的核心をなしたと思われる3つの体験が書かれている。体験を啓示と考えて差し支えない。

1つは、三島が神輿を担ぎながら、青空を見上げたときのもの。三島は幼いころ神輿を担ぐ若者たちをみて、彼ら(集団)は何を考えながら神輿を担いでいるのかを想像していたという。そして、青年を過ぎて三島自身が神輿を担いだとき、

《(集団の中で)何も考えず、ただ空だけを見上げていた》ことを実感する。そして、三島は、《青空のうちに、私が「悲劇的なもの」と久しく読んでいたところのものの本質を見た》というのである。

もう1つは、三島が自衛隊に体験入隊したときの初夏の夕方のことである。三島は一人で宿舎に戻るとき、《そこには何か、精神の絶対の閑暇があり、肉の至上の浄福があった・・・私は正に存在していた!》と書きとどめている。そして、《そこでは多くの私にとってフェティッシュな観念が、何ら言葉を介さずに、私の肉体と感覚にじかに結びついていたのである。軍隊、体育、夏、雲、夕日、夏草の緑、白い体操着、土埃、汗、筋肉、そしてごく微量の死の匂いまでが》と続けた。

3つ目の啓示は、国立競技場のトラックを一人で走っていたときである。そこで三島はアンツーカーの煉瓦色に百合の花粉の色を見る。そして、《走りながら、1つの想念が私の心を占めていた。すなわち、夜明けの悩める百合と、肉体の清浄との関係・・・肉体の清浄と神聖に関する少年の偽善とのつながり、聖セバスチャンの殉教の主題》へと己の観念を馳せるのであった。
百合と聖セバスチャンとくれば、これは同性愛の暗示である。三島は『聖セバスチャンの殉教』というタイトルの自身のヌード写真集(撮影/篠山紀信)を出している。

最後に、三島はこうまとめる。
 肉体は集団により、その同苦によって、はじめて個人によっては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であった。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だった。のみならず、たえず安逸と放埓と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へとみちびくところの、集団の悲劇性が必要だった。集団は死へ向かって拓かれていなければならなかった。私がここで戦士共同体を意味していることは云うまでもあるまい。
 早春の朝まだき、集団の一人になって、額には日の丸を染めなした鉢巻を締め、身も凍る半裸の姿で、駆けつづけていた私は、その同苦、その同じ懸声、その同じ歩調、その合唱を貫いて、自分の肌に次第になじんで来る汗のように、同一性の確認に他ならぬあの「悲劇的なもの」が君臨してくるのをひしひしと感じた・・・われわれは等しく栄光と死を望んでいた。望んでいるのは私一人ではなかった。
何度も繰り返すとおり、『太陽と鉄』は難解な書である。「悲劇的なもの」の本質、「微量の死の匂い」「同性愛」そして、「戦士共同体」と続く記述に、「盾の会」結成から自衛隊市谷駐屯地突入までの行動の構想を読み取ることもできるけれど、徹底して反文学、反知性を貫く本書の三島の姿勢のどこまでが三島の心底の声であるかもわからない。三島由紀夫は依然、謎の作家であり続けるばかりだ。

2006年8月27日日曜日

『思想としての全共闘世代』

●小阪 修平〔著〕 ●ちくま新書 ●735円(税込)

団塊世代特殊論と全共闘世代が混同して語られる論調が多い中、本書は、全共闘運動をまともに扱った数少ない書だ。本書によって、団塊世代と全共闘運動家の相違点が世間に了知されたはずだ。そればかりではない。著者(小阪修平)は、全共闘の思想的課題に対して、倫理的に向き合った数少ない元全共闘活動家であると言えよう。

しかし、本書の全共闘論すなわち著者(小阪修平)の運動歴が全共闘のすべてではない。著者(小阪修平)は全共闘と真正面から向き合ってはいるが、その全共闘体験は限られたものだ。著者(小阪修平)はセクトに属さない(当時、ノンセクトラディカルと呼ばれた)、つまり、市民運動として、全共闘に関わった学生のようだ。だから、著者(小阪修平)の<思想>もそこに縛られている。本書は全共闘運動をノンセクトラディカルとして担った者の総括という枠組みに限定されている。

本書の指摘を待つまでもなく、同世代の学生(つまり団塊世代)がすべて全共闘運動に流れたわけではない。著者(小阪修平)が言うとおり、時代の潮流に絡め取られた人もいれば、そうでない人もいた。同じ団塊でも、後者にとって全共闘は、大学生活を混乱させた許し難い存在だった。

全共闘運動の時代とは、一言で言えば変革期だった。第二次世界大戦後成立した東西冷戦構造から20年余を経て、東側ではスターリン主義の見直しが始まっていたし、西側では公害問題、ベトナム戦争、市民社会の拡張・高度化といった、転換期を迎えていた。全共闘運動は、このような世界史的変革を背景にして起こった。

近代以降の日本における大衆反乱、政治的動乱は、もちろん、全共闘運動だけではない。その代表的なものとして、まず、維新直後(1870年ごろ)、各地で起こった士族反乱が挙げられる。最も大規模なものが「西南の役」だった。

二度目は、昭和初期(19300年代)、青年将校を中心とした、天皇制原始社会主義を目指したクーデターがあった。「5.15事件」「2.26事件」として、現代史に刻まれている。アジア太平洋戦争直後(1950年前後)には、日本共産党の武装闘争があり、「血のメーデー事件」が名高い。そして、1960年の「安保闘争」を経て、1970年前後の全共闘運動に至る。

全共闘運動は、それ以外の運動と比べると、体制に与えた影響、反乱の規模等の観点からして、最も「弱い」運動だったと考えられる。たとえば、全共闘運動の直前にあった60年安保闘争の方が、参加した階層の多様性、闘争参加者の数量において、全共闘運動を圧倒している。全共闘運動は学生(一部に反戦青年委員会の参加をみたが)に限られていたという面で、極めて限定的運動だった。旧左翼は、全共闘運動を学生による、プチプル急進主義と批判した。旧左翼の指摘は一面の真理をついていた。全共闘運動は、左翼少数派の運動にすぎなかった。

本書にあるとおり、全共闘運動と新左翼(反代々木、反スターリニズム)運動との関係は、微妙に入り組んでいて、截然と分けにくい。全共闘運動参加者の一人ひとりの参加意識によって、とらえ方が異なっている。

たとえば、新左翼各派に属する専門的運動家からみれば、学内全共闘は大衆組織と位置付けられていたから、全共闘の下に結集した学生たちを自陣に引き込もうと努力したはずだ。その一方、著者(小阪修平)のように、全共闘運動=無党派・非政治組織を目的意識的に担った学生にとっては、新左翼各派の政治運動と全共闘運動はきちんと峻別されていた。しかも、全共闘運動参加者各人の参加意識は、わずか数年の差異によって微妙に変化している。著者(小阪修平)はそれを「何年に大学に入ったか、その入射角によって、反射角が異なる」と表現している。

本書にあるとおり、著者(小阪修平)が参加した「べ平連」(=ベトナムに平和を市民連合)は、全共闘運動とほぼ同時期に活動していた市民団体だが、「べ平連」参加者は、実力行使を伴わないカンパニアデモに、全共闘として参加する場合もあれば、「べ平連」として参加する場合もあった。

全共闘運動が幕を引くことになった1969年秋――新左翼にとってまさに「決戦」のときだったのだが――、闘争の第一の山場、佐藤訪米阻止闘争には、「べ平連」の運動家たちの多くは、「べ平連」の実質的上部学生組織であるプロレタリア学生戦線(フロント)に吸収され、「プロレタリア戦士」として、「決戦」に臨んだ。フロントの上部団体は統社同(統一社会主義者同盟)だった。

統社同は、1960年代初頭まで、構造改革を綱領とする修正主義政党だったのだが、同党に限らず、構造改革主義党派は、全共闘運動とともに活性化したマルクス・レーニン主義の新左翼各派の影響を受け、構造改革の綱領を書き直して路線変更をし、マルクス・レーニン主義政党になった。彼らのスローガンはいつのまにか「構造改革」から「プロレタリア世界戦争勝利」に変わっていた。

「べ平連」は、1969年秋の「決戦」直前、新左翼敗北前に、党派に吸収されるという形で自然消滅した。そして、組織としての全共闘も「べ平連」と同じように、このとき吸収・解体・消滅した。「べ平連」のような無党派市民団体は、新左翼各派の表向きの大衆動員装置であった。表向き無党派で高校生を中心に組織された反戦高協は、中核派の高校生組織だった。

学内全共闘は、著者の分析に従えば、1968年の東大・日大闘争から1969年「4.28沖縄闘争」までの短期間、無党派の自然発生的学生集団だった。しかし、先述した「決戦」が近づくに従い、新左翼各派の下部大衆組織に様変わりした、という見方は正しい。

全共闘が新左翼各派に吸収されていった力学は、新左翼各派の組織戦術の成果に還元できるものではない。新左翼運動は、統社同の変容を例外とせず、原理主義に純化していった。本書にもあるように、全共闘運動は学生運動という大衆の枠組みからスタートしながら、運動を重ねるごとに、原理主義化した。

原理主義の1つは戦術論レベルに現れた。新左翼各派は大雑把に言えば、ロシア革命どおりに日本に革命を起こすことを自らの任務と自覚した。他党派がロシア革命という「原理」から逸脱していれば、「修正主義」として批判した。原理主義の帰結は武装蜂起だ。この流れが共産同(共産主義者同盟)赤軍派結成につながる。

ロシア以外の共産主義革命の方法として、毛沢東主義を取り上げたセクトもあった。毛沢東主義を原理主義的に純化した党派としては、共産主義者同盟ML派や、後に共産同赤軍派と連合した日共革命的左派=京浜安保共闘があった。

組織論レベルの原理主義もはなはだしかった。党形成、大衆の組織化の方法だ。革命的マルクス主義の自覚の論理という主体の思想形成を第一とする党派と、大衆運動で党を量的に拡大する運動方針を唱えた党派は、双方に非妥協的な対立を生んだ。

先述した構造改革派は、学園内における他党派との論争過程で修正主義として退けられるか、あるいは、党内の突き上げにあって、原理主義的マルクス・レーニン主義への路線転換を余儀なくされた。武装蜂起を革命の方法に据えなければ、原理主義で理論武装した新左翼各派との理論闘争に勝てなかった。

革命の方法論としては、次第に、「ロシア革命」さえも乗り越えなければならなくなった。「ロシア革命」の不完全性が「一国革命主義=スターリン主義国家=ソヴィエト連邦」の成立に至ったという歴史認識だ。「ロシア革命」の限界は、一国革命にとどまったことだと。新左翼各派は、世界革命、永続革命を夢想した。世界一国同時革命、プロレタリア世界戦争といった、勇ましいスローガン=原理主義が登場した。

全共闘運動の中のノンセクトラディカル活動家は、党派から原理主義的批判に晒された。“君らの運動には限界がある、世界革命が成功しなければ、だれも解放されない”と。こうした問いかけにまともに応対した「べ平連」活動家らの多くは、1969年秋の「決戦」前にフロント戦士に自己変革を遂げ、党派の一員となったように、学内全共闘活動家の多くが新左翼各派に吸収されていった。こうして、組織としての全共闘は解体・消滅した。

かりに、全共闘のノンセクトラディカルが党派の勧誘を断り、ノンセクト独自の思想と運動論を用意していれば、1969年秋の「決戦」を越えて、全共闘運動は思想=組織として、持続した可能性もあった。それができなかったということが、全共闘の思想としての限界だった。政治を回避していたノンセクトラディカルも、1969年秋の決戦における敗北以降に始まった政治的退潮に抗すことはできなかった。それが全共闘の組織としての限界だった。

本書にあるとおり、全共闘運動・新左翼運動の退潮の後、セクトの原理主義はますます急進化し、ハイジャック、連合赤軍事件、内ゲバ殺人、爆弾闘争、世界赤軍(国際的テロリズム)へと急旋回した。また、後世の脱イデオロギー化した時代状況の中、1990年代のオウム真理教によるサリンテロにまでエスカレートしたことになる。この帰結を、全共闘運動に帰するのか、それとも、新左翼運動に帰するのかは定かではない。

さて、1980年代以降の日本の方向性を行政風に表現すると、▽都市化▽情報化▽国際化の3点に集約できる。ところが、1960年代後半から1970年代初頭にかけて活性化したムーブメント、すなわち、革命運動・ヒッピー運動・サブカルチャーの隆盛等のムーブメントは、この3点を先取りしたものだった。

第一に、著者(小阪修平)のような地方から東京に出てきた学生の多くは、東京において既に進められてきた「都市化」に対し、著しい違和を感じたようだ。全共闘運動は、多くの学生が抱いた違和をバネに急進化したともいえる。急激な都市化によって、学生達が旧来の共同体的存在から分離され、実存を強く意識したと換言できる。新左翼が初期マルクスの疎外という概念を持ち出したものは、「疎外された労働」という初期マルクスの概念を借用しながら、都市化した環境に適合しにくかった地方出身学生の心情(疎外感)を代弁した可能性もある。

第二の「情報化」については、当時はまだIT化を意味しないけれど、マスメディアとくにテレビの普及発達、そして、それと並行して生まれたメディアの多様化現象が適合する。たとえば、全共闘運動活動家の愛読書は朝日新聞社から刊行された『朝日ジャーナル』、ファッション情報を満載した『平凡パンチ』、そして漫画『少年マガジン』といったサブカルチャーの雑誌類だった。さらにそのころ、ロック専門誌、映画専門誌、ライフスタイル専門誌等々の新雑誌が刊行され、若者に読まれるようになった。こうした急激な「情報化」の進展は、全共闘運動と無縁ではない。

第三の「国際化」については、新左翼各派がロシア(ソ連)及び中国といった、既成の社会主義国家以外――南米、北朝鮮、中東、アメリカ、ヨーロッパなどに関心を抱いたことで明確だ。もちろん、社会主義運動は「第3インター」「コミュンテルン」「第4インター」といった国際組織が世界各地をつなげてはいたけれど、そうした流れとは別個に、ゲバラ(=南米を拠点とした革命家)、マルクーゼ(アメリカの新左翼思想家)、サルトル(フランスの実存主義哲学者)、キング牧師(アメリカの公民権運動活動家)、アメリカの学生運動、ヒッピー運動、マルコムX(アメリカの黒人革命家)、「フランス5月革命」、中国文化革命などの影響を受け、実質的ではなく意識的に連帯した。

さらに、旧左翼からは異端とされた、ローザ・ルクセンブルク(ドイツの革命家)、シモーヌ・ヴェイユ(フランスの社会運動家)らの復権もあった。

これまで、外国といえばアメリカ、共産主義運動といえばソ連、中国――といった世界観から、この時期、日本人が抱いていた「世界」という概念が爆発的に拡大したことが認められる。

全共闘運動――新左翼運動を含めて――は、政治思想としては、今日世界中を席巻している原理主義およびテロリズムを先取りしたものだった。それが日本における30数年の経過で失敗と証明されている以上、原理主義は国を選ばず滅びる。とは言え、全共闘運動の失敗が、現状に対する異議申し立てすべての失敗を意味するわけではない。全共闘運動は、「観念の遊戯」であったがゆえに、持続性も普遍性も持ち得なかった、ということだ。そこを反省の核とするならば、これから先、なんらかの形で異議申し立てが必要な局面において、全共闘運動体験が生かされる可能性がまったくないとは言えない。

2006年8月24日木曜日

『流刑地にて』

●フランツ・カフカ〔著〕 ●白水uブックス ●900円+税


旅行者がとある流刑地を訪れ、囚人の処刑を見学することになる。判事にして処刑執行人は将校一人。彼はは処刑方法を考案した先代の司令官の忠実な部下として、司令官交代後もその職を全うしている。

処刑には、「ベッド」「馬鍬」「製図屋」によって構成された奇妙な処刑機械が使われている。囚人はベッドに縛り付けられ、製図屋によって製作された判決文を馬鍬によって、体に印刷され、出血多量もしくはショックで命を落とす仕掛けになっている。この処刑機械には、印刷されるときの大量の出血が散乱しないような、あるいは、囚人が苦痛で大声を出さないような仕掛けなどが完備されている。

さて、いよいよ処刑執行に及ぶのだが、囚人を機械に取り付けて機械を回し始めたところで故障してしまう。執行人の将校は、故障は新任の司令官がこの奇妙な機械を使った処刑執行を中止したがっているため、老朽化した部品の交換が行えなくなったためだと、旅行者に告白し始める。将校は、旅行者に向かって、新しい司令官にこの奇妙な機械を使用する処刑が正しい行為であることを伝えるよう懇願し始める。

懇願された旅行者は、自分は旅行者すなわち、よそ者であるから、処刑の問題に関与できないこと、司令官と関わるのは負担であることなどの理由を挙げて、将校の申し出を拒否する。

そんなやり取りをしているうち、将校は不意に新しい図面を取り出し機械に挿入し、処刑機械にかけられている囚人を解放し、自らをその機械にかけ、自らを処刑しようとする。今度は、機械は円滑に動き出し、将校は処刑機械にかけられて命を落とす。

荒唐無稽な話だ。もちろん、そんな流刑地など存在しないし、旅行者が訪れることなどあり得ない。

この小説には、旅行者、将校、囚人、兵士の4人の登場人物しか出てこない(後半部分に村の住人が多少登場するが・・・)。詳しい風景描写もないが、この流刑地はおそらく荒涼とした離島のように思える。設定、出来事、結末は不条理であり、現実と幻想(夢)が入り混じった世界のように思える。あり得ない話なのだが、権力の源泉を示す寓話のように思えなくもない。

重要なのは結末で、囚人と死刑執行人が入れ替わるという転倒だ。この結末には、傍観者であるはずの旅行者が一役買っているものの、一切登場しない新任の司令官の存在が最も大きな役割を果たしている。

将校は、新任の司令官が従来の処刑機械を使った処刑の廃絶はもちろん、執行者である自分の解任を目指しているに違いないと、認識している。

旅行者は、在地の権力者(新任の司令官)と、処刑方法という重い問題で関わりあうことを恐れている。二人にとっては、いまここにいる相手方よりも、不在である新任の司令官との関係が重要だと認識している点で共通している。将校と旅行者は、新しい司令官が行うかもしれないという権力の行使に、共に恐怖を抱いている。

人間の行動は、暴力・軍事力といった強制力に従うこともあるだろうが、人々の心の中に生ずる幻想的な力――関係性――に拠ることもある。権力は暴力による強制~従属をもつこともあろうが、人々の抱く観念(たとえば恐怖)によって、人々の心の中に醸成されるものではないか。

新しい司令官は、処刑執行人である将校に処刑の禁止を命じた事実はない。にもかかわらず、将校は、新しい司令官が自分を辞めさせ、これまで続けてきた機械による処刑を禁止させるに「違いない」という脅迫観念によって自らの行動を選択する。その結果は、なんとも理不尽な、囚人に代わって自分を処刑機械にかけてしまうという行動だった。

旅行者は、将校の懇願によって新しい司令官と係わり合いをもつことを恐れている。もちろん、旅行者は新しい司令官に会ったことはない。にもかかわらず、新しい司令官が自分を拘束したり尋問したりする可能性を危惧し、将校の申し出を拒絶する。この拒絶が将校、自らの処刑という行動を惹起せしめる。

4人の登場人物のうち、兵士はだれにも関わらない。将校の部下だから将校と上下関係にあるのだが、兵士は機械に不器用に関与して将校に怒られたり、旅行者を警戒したり、解放された囚人と戯れたりもする。兵士だけが、処刑という制度、新しい司令官、将校、旅行者、囚人に対して、まったく関与しない存在になっている。

将校と囚人は当事者同士、そして、旅行者は傍観者でありながら、当事者に実態的に関与する。ところが、兵士は、3人とは実態的に、また、新任の司令官には観念的に、関わらない点で非存在である。兵士はだから、筋書きに関与せず、現れたり消えたりする演劇における道化に似ている。非存在の兵士の存在が、非現実性を強調し、小説のかもし出す荒涼感を強く読む者に与える。

2006年8月21日月曜日

『靖国神社「解放」論』

●稲垣久和〔著〕 ●光文社 ●952円+税

靖国問題の最終解決方法

靖国問題の背景には、戦没者という霊的存在と、遺族という世俗的存在がある。このたびの靖国問題の発端は、小泉首相が靖国参拝を後者に公約したことから始まり、現在に至っている。

手続き的には、小泉首相の靖国参拝はそれなりに、多数決原理に適っている。国民が小泉首相の公約に「ノー」ならば、自民党は先の総選挙で大勝するはずがない。先の総選挙で、小泉靖国参拝は、信任されたのだ。

だから、靖国参拝を民主的に解決する方法はただ一つ、「靖国」で民意を問うこと以外ない。

もっとも至近にある選挙が来年の参院選ならば、野党である民主党等は、先の小泉首相が採用した、「郵政民営化、イエスかノーか」を倣って、「靖国参拝イエスかノー」のワンイッシ一選挙を仕掛けるしかない。

靖国問題は、けして枝葉末節の問題ではない。少なくとも、・日本の戦争責任について、▽国民国家のあり方、・戦争か平和か、▽自衛隊違憲か合憲か、▽日本の外交のあり方・・・もっといえば、維新後の日本を是と見るか非と見るかであり、戦後日本国憲法を認めるか否かまでも包括した問題なのだ。

自民党が靖国参拝を打ち出せば、自民党政権の本質が見える。来年の参院選は、今般の諸問題を総合的に争点とするよりも、靖国一本に絞ることのほうが、はるかに国民にとって有益な選挙となる。

〔公共〕という第3項では解決できない

さて、本書の批評に戻ろう。本書は、靖国神社問題を〔私-公-公共〕という3元的位相の設定で解決を図ろうという試みだ。一般には、私(個人)と公(国家等)という対立項があるが、著者(稲垣久和)は、それ以外に公共という位相を設定する。ただし、公共というのは容易に理解し難い概念である。著者(稲垣久和)の定義を解釈すると、公共とは〔市民原理〕と換言できるように思う。〔市民原理〕は、私(個人)及び公(国家)より、先験的に上位にあるもののようだ。

靖国問題の場合、私人=小泉純一郎、公=国家=内閣総理大臣が参拝を志向し実践しているが、それは公共に反する、しかも、靖国参拝に限らず、公共原理に反する行為等については、〔公共原理〕が自動的にそれを禁止・制御できる、というのが著者(稲垣久和)の論理構成のようだ。著者(稲垣久和)の結論は、公共(=市民原理)から導き出された無宗教の戦死者慰霊施設を公共的組織が造営・管理し、宗教を問わずに戦死者を慰霊すればいいとなる。

しかし、世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「支持する」と回答した人の割合はおよそ40%超を占め、「支持しない」とほぼ同率で拮抗している。著者(稲垣久和)のように、〔公共原理〕が世論の40%超を無原則的に切り捨てていいのだろうか。それが民主主義なのだろうか。靖国の問題は、〔公共原理〕を持ち出せば解決できるほど、易しい問題ではない。

帝国憲法、日本国憲法を問わず、国家が遂行した戦争犠牲者は、国民の負託を受けた国家がそれを管理してきたが、〔市民原理〕が国家を越えて管理できるというのが著者(稲垣和久)の主張だ。

しかし、市民社会が国家から自由である法的根拠をどこに求めたらいいのか。戦争犠牲者を国家の手から奪い返して、市民が独占するとは、どういうことなのか。それは、市民社会が国民国家を廃絶するか、国民国家を市民社会原理に基づき統治する、新たな統治機構が存在しなければ、国民から負託された国家行為を禁止したり無視したりできないのではないか。市民社会が国民国家を廃絶すること及び新たな統治機構を設立することは、靖国問題解決より、はるかに難しいことではないのか。結局、国民国家の枠組みにある以上は、国民が国家を制御するしか方法がない。

靖国神社の建立目的と機能

靖国参拝は心の問題、すなわち「私」の領域に属することだから、公人という立場は存在しない、というのが首相見解である。一方、憲法は個人(私人)の宗教の自由を保障するものの、国家が特定の宗教を保護することもその反対に弾圧することも禁じている、つまり、首相(公人)という立場で特定の宗教施設に出入りし、参拝、祈祷、祈念することは憲法違反だという見解がある。もちろんいま現在、双方の見解が対立したままだ。

靖国神社が日本に数ある宗教施設の中の1つで、分類すれば神道(神社)に属することは言うまでもない。19世紀の建立だから極めて新しい。その目的は、国家が遂行した戦争で戦った犠牲者(=戦士)の魂を祀ることだとされている。

先のアジア太平洋戦争中、日本政府は戦死者を顕彰した。お国のためによくぞ戦ってくれた、死んでくれたというわけだ。靖国神社は日本の帝国主義戦争を補完する装置の1つだった。これをもって、靖国神社は帝国主義戦争のシンボルであり、日本国憲法の反戦平和主義と相容れないという主張もある。もちろん、靖国には戦死した兵士を顕彰する目的・機能があったが、しかし、反戦平和の論理だけでは、靖国問題は解決を見ない。

靖国神社建立は、靖国に限らず、日本の古代からの為政者が行ってきた宗教的実践、すなわち、御霊信仰に基づく。

日本人は、不慮の死を遂げた者の魂は安寧することがなく荒ぶり、生きている者に災厄をもたらすと考えた。最もよく知られているのが天神信仰で、天神様こと菅原道真は、政争に巻き込まれ志半ばで流刑され、死後、その霊は災厄をもたらすものと恐れられた。道真の政敵たちは道真の霊の祟りを恐れ、道真を神として祀りその霊を鎮めた。

維新政府は、自らが遂行した帝国主義戦争――その発端は、国内における維新戦争(戊辰の役)――において、心ならずも散った軍人たちの霊が荒ぶる霊として自らに禍をもたらさないよう、中央に神社を建立した。御霊信仰そのものだ。

維新後の日清戦争からアジア太平洋戦争までの間、わが子を戦地に送り出した「靖国の母」たちも、同様に、亡くなったわが子の荒ぶる霊が自らに禍をもたらすことを恐れた。戦争遂行者と土俗的母性は、御霊信仰=鎮魂という目的において、図らずも一致した。ここで「靖国の母」を政治的に責めることなどできない。維新政府(日本帝国)というのは、土俗の宗教を国民国家形成に巧みに取り込んだ共同体だったからだ。だから、遺族会と靖国神社の関係は、平和の論理=市民的論理だけでは見直されることがない。

「A級戦犯」として処刑された者こそ、荒ぶる霊の代表にほかならない。同じ「A級戦犯」の中には後に公職に復帰し、首相に昇りつめた者もいるのだから、歴代の首相が「A級戦犯」として処刑された荒ぶる霊を鎮めることはその責務の1つだと考えられる。「A級戦犯」合祀は、御霊信仰からみれば、当然の措置となる。

靖国神社は、為政者の論理と土俗の民衆の論理が、鎮魂(御霊信仰)という宗教的実践において生まれた施設であるがゆえに、一国の宰相が、そして一般生活者が、等しく靖国を訪れていいのかどうか――問題はここからだ。

国民の安寧を祈念するとはどういうことか

心ならずも命を落とした者の霊が荒ぶる霊となって人々に災厄をもたらす、と考える信仰をだれも批判・否定できない。そういう信仰を神社が受け容れ、霊を祀り、関係者が参拝することは自然だ。わが国に限らず、護国・救国が宗教の存在意義の1となっている。

ただ、それはそう信じる人々がそうすればいい、という話にすぎない。いま現在、国家は宗教に関与しないことが原則なのだ。遺族が靖国神社に関心を示すかどうかが基本であって、特定の神社が英霊を独占することは、信仰の自由原則に反する。

荒ぶる霊の存在は、かつての兵士の者にとどまらない。先の大戦では生活者の犠牲者の方が圧倒的に多かった。さらに今般では、交通事故、犯罪被害者などなど、多くの国民が非業の死を共有している。そうした死者を特定の宗派が管理することができないばかりか、管理すべきでない。国民の死を特定の宗教施設に集め、特定の宗教の儀式に基づき祀るという制度は明らかに憲法違反だ。簡単に言えば、靖国に祀られている霊については、一度、靖国管理から解き放ち、遺族に任せるべきなのだ。

御霊信仰を信じ、非業の死者として靖国神社に祀ることを望む方々は、靖国合祀を選択すればいい。そうではなく、わが子の戦死を、靖国を含めた日本帝国主義の犠牲者だと考える方々は、靖国ではなくその意思に基づき、自らの手で、その霊が安らぐ方法を選択すればいい。

御霊信仰は日本の古い信仰(おそらくその起源は8世紀前後に遡れると思う)だけれど、いま現在、国民すべてがそれを共有していない。死後の霊の存在を信ずるかどうかという基本的命題がある。いま、死者と生者が向き合う方法としては、墓参が一般的になった。人々は神社に死者を祀る信仰があることすら知らない。ましてや、非業の死者が人々に災厄をもたらすと信ずることは稀だ。

靖国がいまなお、戦死者を顕彰するのであれば、それは帝国主義戦争の正当化にほかならないという意見を否定できない。また一方、靖国が死者の魂を安らかに眠らせるためのものであるのならば、靖国かそうでないかの選択は、遺族の選択にまかせるべきだと言える。靖国を真に「解放する」という意味は、靖国神社が遺族の意思を確認するところから始まるのではないか。

戦死者への思いは千差万別だ。肉親の戦死から、反戦平和を学ぶ遺族もいるし、国家のための名誉の死と受け取る遺族もいる。靖国は、後者にとって必要欠くべからざる施設だと思う一方、前者にとっては、肉親を無益な死に追いやった憎むべき施設と映るだろう。さらにアジアの戦争被害者にとっては、靖国こそ日本帝国主義の象徴であり、侵略を補完した施設として、嫌悪の対象ともなろう。

わが国には、いまだにアジア太平洋戦争肯定論が絶えない。肯定論を弾圧することはできないと同じように、靖国を否定することもできない。だが靖国神社が遺族の意思を確認しないまま戦没者を管理するとなると、靖国神社はアジア太平洋戦争を肯定している、と見られても仕方がないではないか。

国民に決定権

冒頭に戻るが、靖国問題とは、戦死者を管理するのは特定の神社か、国家か、あるいは著者(稲垣和久)が言うところの、抽象的公共か、遺族か・・・という問に収斂する。さらに、戦死者とは何かがより重大な問題となる。少なくとも、アジア太平洋戦争だけで、日本国民350万人以上、アジア各国を合わせると数千万人ともいわれる戦争犠牲者が存在する。それに日清、日露戦争等々を含めれば、どのくらいの戦死者がいるのだろうか。戦死者の慰霊とは、日本人に限ることもない。戦争によって命を亡くした方々の霊を祀るにとどまらず、反戦平和祈念のための慰霊施設はいるのかいらないのか、いるとすればだれが、どこにつくればいいのか――それらを決めるのは、国民以外いない。国民が次の選挙において、各政党が掲げる靖国問題に対する政党見解を選択するしかない。各政党は靖国見解を明瞭にまとめて国民の前に掲げる義務がある。それは法制化を意味しない。政党の「考え方」でいい。国民の総意が判明すれば、靖国神社はそれを受けて自主的に国民の総意に従うことが重要となる。

2006年8月17日木曜日

『神風連とその時代』

●渡辺京二〔著〕●洋泉社MC新書●1700円+税

「神風連」とは周囲から嘲笑を込めて冠せられた戯称で、正式には敬神党という。明治9年、熊本で太田黒伴雄らを首謀者として維新政府の廃刀例等に抗議し、わずか100余名で挙兵したものの鎮圧され、その多くが戦死もしくは自害した。本書はその思想、指導者、参加者、時代背景について詳述したもの。誠に示唆多き書である。

神風連が維新初期に起きた士族の反乱と一線を画する所以は、彼らが宗教的秘密結社であった点である。彼らは決起を「うけい」という神の意志に委ねている。また、彼らのスローガンの1つに、「神事は本、人事は末」というのもある。

敬神党の指導者は林櫻園という神秘的思想家で、決起の前(明治3年)に他界している。神風連の思想的特徴としては概ね尊皇攘夷であり、明治政府が取り入れた欧化政策に悉く反発した。決起の表向きの動機は廃刀例であったことは先述したが、彼らにとって刀剣とは、神国日本の象徴であり、刀は武士の魂というよりも、古代天皇制共同体と今(維新期)を結びつける媒介であった。

著者(渡辺京二)は、神風連の乱を文明の衝突と認識する。維新政府は天皇中心の西欧的近代国家を志向したが、神風連は、天皇を教祖にして治者として崇める、原始共同体を夢想した。

彼らは、維新政府が進める欧化政策に対して、民衆の基層にある神をもちだし、古代天皇制原始ユートピア社会の誕生を志向した。といっても彼らに国家だとか共同体とかいった認識はなかった。ただ、欧風が進めば日本古来の神が死滅し、日本人の根本原理が廃絶されると考えた。ゆえに、決起に勝ち敗け、成功・不成功といった相対的政治的意向は無視された。決起=死であり、それが思想表現=殉教であった。

神風連の乱以降、維新政府から昭和の軍国主義政府成立まで、彼らは純粋な国粋主義者として顕彰されてきた。また、戦後にあっては、狂信的ファシスト集団として扱われてきたため、神風連の実像及び思想的独自性が歪曲されて世に伝えられてきた傾向を否定できない。本書をもって初めて、維新当時、日本に文明の衝突があったことが明らかにされたとも言える。

著者(渡辺京二)はその衝突が昭和初期の「2.26事件」で再び繰り返された、と指摘する。基層ナショナリズム、土俗的共同性、宗教的神秘主義が西欧的近代主義を真に超克する基盤であり得るのかどうか、また、今日の世界におけるタリバンらのイスラム原理主義と米国化(西欧化)との対立する現実を見るとき、わが維新期における「文明の衝突」について突き詰めて思考することは、けして無駄ではない。

2006年8月1日火曜日

近代浪漫派文庫『蓮田善明・伊藤静雄』

●蓮田善明・伊藤静雄〔著〕 ●新学社 ●1343円+税

蓮田・伊藤は、若き日の三島由紀夫に多大な影響を与えたことで知られている。

前者は太平洋戦争終戦直後、戦地において敵に内通した上官を射殺した後、自裁した。後者は自然賛歌風ロマン的詩風で詩壇に登場した後、戦時期になると戦争賛歌の詩作に転じ、戦後はその転位に苦悩しつつ病死した。

本書には蓮田善明の未完小説『有心(今ものがたり)』が収められている。この小説は、戦地から一時帰休した主人公(蓮田自身か)が阿蘇山の麓の温泉地に長期保養をしながら、阿蘇山頂(外輪山の頂点がどこなのだか不明だが)を目指して登山する様子が淡々と描かれ、頂上付近の描写で筆が絶えている。

同書は未完ということを差し引いても、私には期待外れの内容だった。湯治場には、生活者が宿泊している。蓮田は彼らとそれこそ裸の付き合いを通じて、彼らの存在に圧倒される。たとえば、混浴の風呂場で若い女性の裸身を見て驚嘆したりする。そうした描写が自然賛歌を象徴するのだろうか。

評論としては、『雲の意匠』が蓮田の思想を端的に表している。雲を指標として、古今東西の宗教・思想と、日本の伝統的思想(日本主義)のあり方を比較検討しながら、日本のそれの独自性と優位性を傍証する。雲に象徴される日本主義とは非体系的、不定形かつ可変的なもの、曖昧で神秘的なものとなる。これが、日本浪漫派がイメージする日本の心か。

伊藤静雄の詩については、「好み」に還元して恐縮だが、特にコメントする作品がみつからなかったので触れない。