●福島次郎〔著〕 ●文芸春秋 ●1429円+税
著者の福島次郎は、三島由紀夫に見込まれ、一時期、三島(平岡)家に書生のような身分で住み込んでいた人物。そのため、三島の両親、夫人の人柄を知る立場にあり、また、三島の友人達とも親交があった。
本書には、そうした体験を生かして、三島由紀夫の知られざる素顔を記述した、と思われる箇所が散見する。また、三島文学の研究者らに示唆を与える部分もある。私は、三島が「神風連」の調査のため熊本を訪れたくだりについて、興味深く読んだ。「神風連」は三島の遺作『豊饒の海―奔馬』において、最も重要な位置を占めるとともに、あの自決事件に通じている。
しかし、本書が話題をさらったのは、著者が同性愛者であり、三島との関係を告白した部分からだった。三島は『仮面の告白』等で同性愛をテーマにした小説を書いたが、結婚し子供をもうけたことから、一般的には、同性愛者と思われていなかった。昭和30年代から50年代にかけての社会通念としては、同性愛者に対する偏見はいま以上だったから、メディアや出版業界は、高名な作家等が同性愛者であることを表から報道することはなかった。三島由紀夫が同性愛者であったかどうかは、私にはわからないし、どうでもいいこと。本書は小説なのだから、事実よりも創作のほうが多いに違いない。著者が話題づくりのために、三島を同性愛者に仕立て上げた可能性も否定できない。
私が本書に苛立ちを覚えるのは、〈評伝〉なのか〈小説〉なのか、はっきりしてほしいということだ。〈評伝〉ならきっちりとしたドキュメントに仕上げてほしいし、〈小説〉ならば、三島由紀夫という実名を使用しないことだ。まして、三島の親族が本名で登場するのはいかがなものか。三島が尋常でない家庭に育ち、同性愛者であったことが事実だったとしても、すべてが著者の観察記録でないのならば、実名は避けるべきだ。小説としての体裁を最低限整え、それでも、読む側が三島由紀夫をモデルにしていると感じたとしたら、それはそれで仕方がない。
本書のように、実名に頼りながら、事実と思われる記述の合間、合間に、自分の願望、幻想、想像等を織り込んでしまったら、読む側は混乱する。本書のような実名「小説」は、モデルとなった作家の実像を損ねる。そのことに無自覚な本書には、ある特定のイメージで、天才作家を括ろうとする意図が感じられる。有名になりたい著者、売らんかなの出版社――両者に三島文学を歪めようとする悪意が感じられる。特定のイメージというのは、いうまでもなく、同性愛を指す。まったくもって、興味本位にすぎない。私は本書を読んでしまったことを、後悔している。
2006年6月8日木曜日
2006年5月29日月曜日
『村上春樹論「海辺のカフカ」を精読する』
●小森陽一〔著〕 ●平凡社新書 ●780円+税
村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。
『海辺のカフカ』は――
(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。
(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。
(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。
(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。
それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。
対立軸を簡単に紹介しておこう。
『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。
「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。
この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。
「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。
著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。
確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。
村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。
一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。
村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。
退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。
村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
「従軍慰安婦問題」はどこから考えても、かつての日本の侵略戦争を正当化できない、決定的な証拠でした。この問題は、「戦争」という国家が遂行する暴力の中に組み込まれた、非人間性の本質をくっきりと暴露するものでした。国家のための人殺しを正当化する考えを教育された男性たちは、そこに内在する「恐怖」の裏返しとして、女性に対する「レイプ」を欲望する心理構造をもつことが様々な角度から明らかにされ、同時代的に発生したコソボ紛争における、「民族浄化」の名による集団的な「レイプ」と同じ問題として、国連の人権委員会でも議論され、勧告が出されもしたのです。そうした一連の問題を、〈いたしかたのなかったこと〉として不問に付す枠組が、『海辺のカフカ』の中に組み込まれているのです。ここに2002年に日本で発表され、国民的な〈癒し〉を与えた小説として、ベストセラーとなった『海辺のカフカ』という犯罪的ともいえる社会的役割があることを、私は文学という言語実践にかかわる者の責任として強調しておきたいと思います(256頁)村上春樹論には難解なものが多いが、本書もその1つ。批評者の牽強付会、我田引水の臭いがしなくもないけれど、著者の精読の成果を批判する能力が筆者にはないので、本書の感想を書くしかない。日本文学は難しい。
さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。
『海辺のカフカ』は――
(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。
(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。
(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。
(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。
それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。
対立軸を簡単に紹介しておこう。
『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。
「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。
この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。
「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。
著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。
確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。
村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。
一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。
村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。
退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。
2006年5月20日土曜日
『英霊の聲』
●三島由紀夫〔著〕 ●河出文庫 ●683円+税
『英霊の聲』『憂国』の短編小説と戯曲『十日の菊』、そして『2.26事件と私』というエッセイが収められている。エッセイを除いた三部作が、三島の「2.26事件三部作」だ。三部作のモチーフは後年、三島の遺作『奔馬
豊饒の海(三)』に結実する。
『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。
神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。
この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。
「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。
以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。
二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。
死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。
三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。
三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。
底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。
『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。
本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->
『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。
神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。
この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。
「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。
以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。
二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。
死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。
三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。
三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。
底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。
『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。
本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->
2006年5月18日木曜日
『団塊の世代とは何だったのか』
●由紀草一〔著〕 ●洋泉社 ●740円+税
本書は、「団塊」と冠をした戦後論なのだが、著者(由紀草一氏)は団塊に対して、悪意を抱いているようだ。その理由については、本書からはうかがえない。詳細は後述するが、全共闘運動の先駆性、創造性といった肯定的評価は団塊以前に帰し、そのいい加減さなどの否定的評価については団塊世代に帰している。戦後の諸矛盾は団塊世代に責任のすべてがあるわけではない。団塊以前⇒団塊⇒団塊以降が無意識に戦後精神を継承した結果だと思える。
本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。
もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。
人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。
マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。
(1)政治体験
具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。
著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。
そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。
グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。
ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。
政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。
日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。
革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。
団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。
(2)歌ったのは「団塊」だけではない
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。
形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。
団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。
(3)世代批判の不毛性
繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。
たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。
何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。
「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。
団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。
メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。
本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。
もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。
人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。
マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。
(1)政治体験
具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。
著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。
そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。
グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。
ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。
政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。
日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。
革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。
団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。
(2)歌ったのは「団塊」だけではない
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。
形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。
団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。
(3)世代批判の不毛性
繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。
たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。
何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。
「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。
団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。
メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。
2006年5月6日土曜日
『天人五衰』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●514円(+税)
最終4巻目だ。「4」は、起承転結の「結」に当たる。
まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。
粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。
本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。
そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。
これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。
その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。
81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」
印象を書きとめておこう。
起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。
『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。
本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。
『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)
まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。
粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。
本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。
そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。
これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。
その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。
81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」
印象を書きとめておこう。
起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。
『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。
本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。
『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)
2006年5月4日木曜日
『暁の寺 豊饒の海3』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●620円(+税)
物語は勲が蔵原武介を殺害し自刃してから8年後、昭和15年(1940年)のバンコクで始まる。この年に日独伊三国同盟が締結されている。日本は連合国を相手に、アジア・太平洋戦争開始に向けて、破滅の道をまさに歩まんとしていた。本書では、これまで傍観者であった本多が主人公になる。
勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。
ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。
ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。
時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。
第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。
本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。
このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。
本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。
結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。
勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。
ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。
ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。
時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。
第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。
本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。
このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。
本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。
結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。
2006年4月25日火曜日
『奔馬 豊饒の海2』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●660円(税別)
物語は清顕の死から18年後(昭和7年)に始まる。昭和7年には「5.15事件」が起きている。この時期の社会状況としては、農村部は凶作続きで疲弊、都市労働者は大量失業と、混乱した。一方、財閥、政治家、官僚、軍部は癒着し利権に走り、人心は荒廃した。そのため、社会正義の実現と、天皇制原始共同社会建設を標榜する超国家主義者が直接行動に走り始めた。彼らの一部は実業家・政治家等を対象に、「一人一殺」のテロを実行した。「5.15事件」はこうした潮流の中で起きたものだ。
さて、亡くなった松枝清顕(第一巻『春の雪』の主人公)の親友だった本多は、大学卒業後、裁判官として大阪に赴任し所帯をもつ。本多は奈良の大神神社で行われた奉納剣道大会の主賓として招かれることになる。彼は大会で優勝した青年が松枝家で清顕に仕えていた書生・飯沼芝行の長男・勲であることを知る。勲の父=飯沼芝行は松枝家の書生時代、下女との密通により同家から放逐されたことは、第一巻に描かれていた。飯沼芝行は故郷鹿児島に戻り、その後、右翼結社・献靖塾の塾長となっていた。その息子・勲は國學院大學に通う学生で剣道の達人、熊本の神風連の乱を理想とする皇国青年だ。本多は、神社の境内の滝で身を清める勲の体を見る。勲の体にある印(3つの黒子)は、清顕の印と位置・数とも寸分違うところがない。本多は、勲が清顕の生まれ変わりであることを確信する。
『豊饒の海(全四巻)』は、『浜松中納言物語』を下敷きにした輪廻転生の物語。三島自身、そのことを第一巻末に注釈している。輪廻転生は仏教の教義だが、日本古来の宗教(神道)にも古い神が死んだ後、新しい神として生まれ変わる信仰が認められる。死と再生は、農耕民族が穀物のサイクル(種子-発芽-成長-結実-枯死・・・)から導き出した宗教概念だという説がある。穀物のサイクルに倣って、人々は尊き者(神)の死と再生(復活)を信じようとしたのだろうか。
本書では『神風連史話』(山尾綱紀著)という書物が物語の展開の上で、重要な役割を果たしているのだが、同書は三島由紀夫が創作した架空の書物。熊本を舞台にした「神風連の乱」(史実)と、創作である『神風連史話』の記述が一致するかどうかを判定する能力は筆者にはない。そこで、熊本県のホームページにある神風連に関する記載と『神風連史話』とを比較してみる。熊本県のHPには次のように記されている。
比較の限りでは、(三島が創作した)『神風連史話』は史実とは、大筋で違っていない。ただ、『神風連史話』では、神風連が剣(日本刀)を信奉・偏愛したことが強調されている。挙兵では彼らが神聖視する日本刀、槍等のみの武装にて熊本鎮台を襲撃したものの、銃器等の近代装備で武装した維新政府軍に逆に鎮圧されてしまう。剣は武士の魂であり、かつ、皇国思想における「三種の神器」の1つ。勲が剣道の達人に設定されており、剣は勲が信ずる皇国思想の象徴となっている。
「神風連」に心酔し要人暗殺による「世直し」を決意した勲は、陸軍中尉・掘と出会う。勲が中尉に『神風連史話』をすすめたことが縁となり、中尉と勲は固い信頼関係で結ばれる。中尉は陸軍に従軍する武闘派の皇族・洞院宮に勲を紹介する。洞院宮こそ、第一巻で聡子と勅許により結ばれるはずの相手だ。洞院宮は聡子と清顕の関係を知るよしもないのだが、清顕と聡子は、洞院宮の存在によって引き裂かれたことは事実。洞院宮は、勲の父・飯沼芝行が仕えた清顕を死に追いやった張本人。もちろん、勲がそんなことを知るはずもない。勲は直参のおりに、『神風連史話』を洞院宮に献上する。勲は宮に自分が信じる皇国思想を開陳する。宮は勲の熱情に強い衝撃を受ける。
勲は『神風連史話』を教本にして、決起のため20名の同志を集める。彼らは勲が説く要人暗殺計画に賛同し神前に実行を誓う。勲らは、献靖塾を支援してきた鬼頭中将の娘・槙子から資金的協力を得て、計画は順調に進むかに思われる。この間、勲、槙子は相思相愛であったのだが、それを互いに伝えることはできていない。
勲の計画は、財界人暗殺、東京銀行及び変電所の襲撃、戦闘機を使ったアジビラ撒布、を骨子としていた。ところが、決行直前、掘中尉が満州配属で決行から脱落。と同時に、軍関係の協力(戦闘機の使用)が得られないこととなる。軍の非協力を知ったことで、数人の仲間が脱落し、決行は危ぶまれたのだが、献靖塾の古手の塾生・佐和が急遽決起に参画することとなり、佐和のすすめで、財界人暗殺に計画を縮小する。計画の実効性が高まったことにより、同志の団結は再び回復する。勲は決起を前にして、槙子に実行日を打ち明ける。そして二人は互いの愛を確認する。決起の最終打ち合わせのため、佐和を除く全員がアジトに集まったところ、刑事が踏み込んでくる。勲らは全員逮捕され獄に入れられる。
勲の父・飯沼芝行は勲逮捕を本多に知らせる。知らせを聞いた本多は裁判官の職を辞し弁護士となり、勲の弁護を買って出る。本多には勲が清顕の生まれ変わりだという確信がある。彼が勲を助けることは、すなわち清顕を助けることにほかならない。弁護士となった本多は洞院宮を通じて、勲が国家反逆罪となる証拠文書の隠滅に成功する。裁判では槙子の偽証などもあり、勲は重罪を免れ保釈となる。
勲が釈放された日、勲の父(飯沼芝行)は、官憲に密告したのは自分だったことを、また、献靖塾の運営が、勲らが腐敗の根源だとして暗殺リストに掲げた財界人・蔵原武介の間接的献金により運営されていることを告げる。勲はまた、勲の父に決行の日を教えたのが槙子だったことを知る。勲は自分の純粋な思想と行動が「不純な」大人たちの現実主義により弄ばれていることに怒り、新たな直接行動敢行の決意を固める。蔵原武介の暗殺だ。彼は一人、蔵原の別荘に潜入し彼を刺し殺す。そして、自分も割腹自殺を図る。
本書の印象を書きとめておこう。
主人公・飯沼勲の思想と行動は、三島由紀夫が、「楯の会」を結成し、自衛隊市谷駐屯地に突入後、自決に至る事件(1973年)を連想させる。本書に描かれた勲の行動は、三島自身の自決とオーバーラップする。
本書には、三島が抱く思想が余すところなく描き出されている。三島の思想のエッセンスは、▽日本人の共同性の中心となる原始天皇信仰、▽知行統一としての陽明学、▽輪廻転生を保証する仏教、▽『葉隠』に代表される武士道――に要約されると思う。
三島は、日本人のエートスである上記4点を渾然一体化した宗教を始めようとしたに違いない。三島独自の自死の思想を展開する。恐ろしいことに、それらはいまなお日本人の思考・行動を律している。たとえば、年間3万人を超える自殺者の存在や、経済事件の中心となる人物の自殺の頻発、自死と等価と思われる殺人事件の頻発などが挙げられると思う。日本人にとって、自死は必ずしも避けるべき手段ではないばかりか、かなり身近なそれである。
もう1つは、人が思想に殉ずる純粋性(絶対性)と、実生活との妥協(相対性)の問題だ。三島は本書を通じて、イデオロギー及び信仰の実践に係る原理的問題提起をしている。人は信ずるところを実践しなければいけない。そのためには死を厭わない。それができないまま、実生活と折り合いをつけるのであれば、真の思想的実践者ではない。三島のこの論に従えば、この世は夥しい殉教者の死体で埋まるか、あるいは、思想的対立とともに開始された戦闘による多くの戦死者に取り囲まれるだろう。思想(理想)とは、生活において、なんであるのか・・・本書の問いかけはここに帰すると思う。
さて、亡くなった松枝清顕(第一巻『春の雪』の主人公)の親友だった本多は、大学卒業後、裁判官として大阪に赴任し所帯をもつ。本多は奈良の大神神社で行われた奉納剣道大会の主賓として招かれることになる。彼は大会で優勝した青年が松枝家で清顕に仕えていた書生・飯沼芝行の長男・勲であることを知る。勲の父=飯沼芝行は松枝家の書生時代、下女との密通により同家から放逐されたことは、第一巻に描かれていた。飯沼芝行は故郷鹿児島に戻り、その後、右翼結社・献靖塾の塾長となっていた。その息子・勲は國學院大學に通う学生で剣道の達人、熊本の神風連の乱を理想とする皇国青年だ。本多は、神社の境内の滝で身を清める勲の体を見る。勲の体にある印(3つの黒子)は、清顕の印と位置・数とも寸分違うところがない。本多は、勲が清顕の生まれ変わりであることを確信する。
『豊饒の海(全四巻)』は、『浜松中納言物語』を下敷きにした輪廻転生の物語。三島自身、そのことを第一巻末に注釈している。輪廻転生は仏教の教義だが、日本古来の宗教(神道)にも古い神が死んだ後、新しい神として生まれ変わる信仰が認められる。死と再生は、農耕民族が穀物のサイクル(種子-発芽-成長-結実-枯死・・・)から導き出した宗教概念だという説がある。穀物のサイクルに倣って、人々は尊き者(神)の死と再生(復活)を信じようとしたのだろうか。
本書では『神風連史話』(山尾綱紀著)という書物が物語の展開の上で、重要な役割を果たしているのだが、同書は三島由紀夫が創作した架空の書物。熊本を舞台にした「神風連の乱」(史実)と、創作である『神風連史話』の記述が一致するかどうかを判定する能力は筆者にはない。そこで、熊本県のホームページにある神風連に関する記載と『神風連史話』とを比較してみる。熊本県のHPには次のように記されている。
神風連は城内千葉城にあった林桜園の私塾「原道館」の門下生でつくる「敬神党」の別名。神風連は神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体でした。明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令」の太政官布告、同6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し新開大神宮に「うけい」を立て、挙兵を認める宣示が下ったとして、熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。同年10月24日夜、太田黒伴雄や加屋霽堅らに率いられた神風連170人余りは、熊本城内の藤崎八旛宮に集合し、鎮台司令長官種田政明や県令安岡良亮らを襲撃して、多くの官憲を殺傷しました。また、別の隊は二の丸の兵営を襲い、これを全焼させ鎮台側を大混乱に陥れましたが、与倉知実歩兵第13連隊長が、要人襲撃の難を逃れ戦場に現れると、鎮台兵は落ち着きを取り戻し反撃を始めました。かたや神風連は太田黒や加屋等が戦死して、指揮系統が乱れ、25日早朝には敗走。最終的には戦死28人、自刃86人を出して惨敗。残った者もほとんどが捕らえられました。この乱はあらかじめ各地の同士に伝えられており、10月27日には秋月の乱、同28日には萩の乱が勃発しました。
比較の限りでは、(三島が創作した)『神風連史話』は史実とは、大筋で違っていない。ただ、『神風連史話』では、神風連が剣(日本刀)を信奉・偏愛したことが強調されている。挙兵では彼らが神聖視する日本刀、槍等のみの武装にて熊本鎮台を襲撃したものの、銃器等の近代装備で武装した維新政府軍に逆に鎮圧されてしまう。剣は武士の魂であり、かつ、皇国思想における「三種の神器」の1つ。勲が剣道の達人に設定されており、剣は勲が信ずる皇国思想の象徴となっている。
「神風連」に心酔し要人暗殺による「世直し」を決意した勲は、陸軍中尉・掘と出会う。勲が中尉に『神風連史話』をすすめたことが縁となり、中尉と勲は固い信頼関係で結ばれる。中尉は陸軍に従軍する武闘派の皇族・洞院宮に勲を紹介する。洞院宮こそ、第一巻で聡子と勅許により結ばれるはずの相手だ。洞院宮は聡子と清顕の関係を知るよしもないのだが、清顕と聡子は、洞院宮の存在によって引き裂かれたことは事実。洞院宮は、勲の父・飯沼芝行が仕えた清顕を死に追いやった張本人。もちろん、勲がそんなことを知るはずもない。勲は直参のおりに、『神風連史話』を洞院宮に献上する。勲は宮に自分が信じる皇国思想を開陳する。宮は勲の熱情に強い衝撃を受ける。
勲は『神風連史話』を教本にして、決起のため20名の同志を集める。彼らは勲が説く要人暗殺計画に賛同し神前に実行を誓う。勲らは、献靖塾を支援してきた鬼頭中将の娘・槙子から資金的協力を得て、計画は順調に進むかに思われる。この間、勲、槙子は相思相愛であったのだが、それを互いに伝えることはできていない。
勲の計画は、財界人暗殺、東京銀行及び変電所の襲撃、戦闘機を使ったアジビラ撒布、を骨子としていた。ところが、決行直前、掘中尉が満州配属で決行から脱落。と同時に、軍関係の協力(戦闘機の使用)が得られないこととなる。軍の非協力を知ったことで、数人の仲間が脱落し、決行は危ぶまれたのだが、献靖塾の古手の塾生・佐和が急遽決起に参画することとなり、佐和のすすめで、財界人暗殺に計画を縮小する。計画の実効性が高まったことにより、同志の団結は再び回復する。勲は決起を前にして、槙子に実行日を打ち明ける。そして二人は互いの愛を確認する。決起の最終打ち合わせのため、佐和を除く全員がアジトに集まったところ、刑事が踏み込んでくる。勲らは全員逮捕され獄に入れられる。
勲の父・飯沼芝行は勲逮捕を本多に知らせる。知らせを聞いた本多は裁判官の職を辞し弁護士となり、勲の弁護を買って出る。本多には勲が清顕の生まれ変わりだという確信がある。彼が勲を助けることは、すなわち清顕を助けることにほかならない。弁護士となった本多は洞院宮を通じて、勲が国家反逆罪となる証拠文書の隠滅に成功する。裁判では槙子の偽証などもあり、勲は重罪を免れ保釈となる。
勲が釈放された日、勲の父(飯沼芝行)は、官憲に密告したのは自分だったことを、また、献靖塾の運営が、勲らが腐敗の根源だとして暗殺リストに掲げた財界人・蔵原武介の間接的献金により運営されていることを告げる。勲はまた、勲の父に決行の日を教えたのが槙子だったことを知る。勲は自分の純粋な思想と行動が「不純な」大人たちの現実主義により弄ばれていることに怒り、新たな直接行動敢行の決意を固める。蔵原武介の暗殺だ。彼は一人、蔵原の別荘に潜入し彼を刺し殺す。そして、自分も割腹自殺を図る。
本書の印象を書きとめておこう。
主人公・飯沼勲の思想と行動は、三島由紀夫が、「楯の会」を結成し、自衛隊市谷駐屯地に突入後、自決に至る事件(1973年)を連想させる。本書に描かれた勲の行動は、三島自身の自決とオーバーラップする。
本書には、三島が抱く思想が余すところなく描き出されている。三島の思想のエッセンスは、▽日本人の共同性の中心となる原始天皇信仰、▽知行統一としての陽明学、▽輪廻転生を保証する仏教、▽『葉隠』に代表される武士道――に要約されると思う。
三島は、日本人のエートスである上記4点を渾然一体化した宗教を始めようとしたに違いない。三島独自の自死の思想を展開する。恐ろしいことに、それらはいまなお日本人の思考・行動を律している。たとえば、年間3万人を超える自殺者の存在や、経済事件の中心となる人物の自殺の頻発、自死と等価と思われる殺人事件の頻発などが挙げられると思う。日本人にとって、自死は必ずしも避けるべき手段ではないばかりか、かなり身近なそれである。
もう1つは、人が思想に殉ずる純粋性(絶対性)と、実生活との妥協(相対性)の問題だ。三島は本書を通じて、イデオロギー及び信仰の実践に係る原理的問題提起をしている。人は信ずるところを実践しなければいけない。そのためには死を厭わない。それができないまま、実生活と折り合いをつけるのであれば、真の思想的実践者ではない。三島のこの論に従えば、この世は夥しい殉教者の死体で埋まるか、あるいは、思想的対立とともに開始された戦闘による多くの戦死者に取り囲まれるだろう。思想(理想)とは、生活において、なんであるのか・・・本書の問いかけはここに帰すると思う。
2006年4月13日木曜日
『春の雪 豊饒の海1』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮社 ●629円(税込)
本書は、三島由紀夫の遺作と言われる「豊饒の海(四部作)」の第一巻。大正期の華族(松枝公爵一家とその周辺)を舞台にした青春恋愛小説という体裁をとっている。松枝家は江戸時代、薩摩藩の下級武士だったが、維新革命の功績により公爵に準ぜられた。東京・渋谷に14万坪の大邸宅を構えるほどの権勢を誇っている。主人公松枝清顕は、学習院高等科に通う美貌の長男という設定だ。
清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。
本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。
二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。
以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。
この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。
同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。
四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。
清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->
清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。
本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。
二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。
以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。
この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。
同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。
四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。
清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->
2006年4月1日土曜日
『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』
●佐藤幹夫[著] ●PHP新書 ●780円+税
苦手な日本文学について書く。
筆者は村上春樹の小説のほとんどを読んでいる、熱心な“村上ファン”の一人だが、正直いって、本書を読んで驚いた。たとえば、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島の『夏子の冒険』という週刊誌に連載された小説を下敷きにして書かれたものだということを初めて知ったからだ。
また、村上春樹の『ノルウェイの森』の登場人物の一人・小林緑という名前は、なんと三島の『豊饒の海』に登場するジャオ・ピーの恋人・ジンジャン姫のイメージから命名されたものだと。
筆者には著者の指摘の是非を断ずる能力がない。だから、本書を読み進めるたびごとに、“ふぉー”と叫びたくなるほど驚いた。確かに、『羊をめぐる冒険』(村上)にも『夏子の冒険』(三島)にも“冒険”とあるから、村上が三島を下敷きにしたことは確かなことのようだ。著者の指摘は、日本文学を知る人からみれば、驚くに当たらないものなのかもしれないが。
そればかりではない。村上は三島の小説の構造、人物配置、テーマにおいても強い影響を受け、それを発展的に再構築したという。
著者によると、小説家とは自己のイメージを意図的かつ戦略的に創造するものだそうだ。村上春樹の場合、米国に滞在し、米国文学を翻訳し、マスコミを使って、自身がアメリカ的な生活をしているかのようなイメージを与えていて、しかも、雑誌のインタビューで、「自分は、日本文学を読まなかった」と語っているという。
村上の小説に登場するキャラクターそのもの、小道具として使われる音楽、クルマ、ファッション・・・などなど、その小説に設定された衣食住はアメリカ的だ。たとえば、モダンジャズ、ファーストフード、コンビニ(ドラッグストアー)などが小説の舞台であると同時に、記号化されたメッセージになっている。主人公がとる朝食はパン、ハムエッグ、サラダ、コーヒーであり、白いご飯に納豆、味噌汁ではない。村上春樹の文体そのものが「翻訳的」だ。著者によると、村上はあえて日本文学(=三島)の影響を意図的に隠蔽しているのだという。
しかし、どんなに「翻訳的」な日本語であっても、日本語は日本語である。日本がいまから138年前の明治革命以来、欧米文化を積極的に取り入れ、さらに、61年前の大敗戦以来、米国の支配下におかれ米国文化を取り入れてきたにしろ、日本列島に日本人らしき民族が現れ日本語を話し始めてから、何千年のときが経過している。近代日本文学はおそらく、表層の変化と基層の不変の間で揺れてきたに違いない。
本書では三島の『奔馬』と村上の『ダンス・ダンス・ダンス』の類似性の指摘を分析した後、その差異として、『奔馬』には決起行動(革命)、すなわち、腐敗、不正義に対する「闘い」が渇望され、一方の『ダンス・ダンス・ダンス』には高度資本主義社会すなわち無駄で無意味で幻想的なものとの「闘い」の可能性が探られているという。
三島も村上も「闘い」を描きながら、両者には闘いの「相手」、闘いの「質」、闘い「方」に大きな隔たりがあるというわけだ。三島の晩年は政治の季節だった。村上の登場は、学生運動が終息しマルクス主義が後退した時代だった。
さて、著者は、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫、村上春樹を一本の糸でつなぐ可能性を試行している。それが可能かどうかはわからない。可能・不可能というよりも、日本文学が日本語で書かれる以上、近代以降の小説家に基層の共同性を認めることは難しいことではない。村上が三島の小説の影響下で小説を書いた、という指摘も大いにあり得る。
日本の小説は、日本語で書かれる散文形式の1つ。時々の日本の小説には、過去現在の日本人小説家の互いの影響により、成立している。そこに換骨奪胎、本歌取り・・・が意識的にか無意識的にか行われることもあるし、日本の知識人の問題意識が意識的かつ無意識的に共有されることもある。結論は、“だからどうなんだ”ということ。
また、村上春樹の『ノルウェイの森』の登場人物の一人・小林緑という名前は、なんと三島の『豊饒の海』に登場するジャオ・ピーの恋人・ジンジャン姫のイメージから命名されたものだと。
筆者には著者の指摘の是非を断ずる能力がない。だから、本書を読み進めるたびごとに、“ふぉー”と叫びたくなるほど驚いた。確かに、『羊をめぐる冒険』(村上)にも『夏子の冒険』(三島)にも“冒険”とあるから、村上が三島を下敷きにしたことは確かなことのようだ。著者の指摘は、日本文学を知る人からみれば、驚くに当たらないものなのかもしれないが。
そればかりではない。村上は三島の小説の構造、人物配置、テーマにおいても強い影響を受け、それを発展的に再構築したという。
著者によると、小説家とは自己のイメージを意図的かつ戦略的に創造するものだそうだ。村上春樹の場合、米国に滞在し、米国文学を翻訳し、マスコミを使って、自身がアメリカ的な生活をしているかのようなイメージを与えていて、しかも、雑誌のインタビューで、「自分は、日本文学を読まなかった」と語っているという。
村上の小説に登場するキャラクターそのもの、小道具として使われる音楽、クルマ、ファッション・・・などなど、その小説に設定された衣食住はアメリカ的だ。たとえば、モダンジャズ、ファーストフード、コンビニ(ドラッグストアー)などが小説の舞台であると同時に、記号化されたメッセージになっている。主人公がとる朝食はパン、ハムエッグ、サラダ、コーヒーであり、白いご飯に納豆、味噌汁ではない。村上春樹の文体そのものが「翻訳的」だ。著者によると、村上はあえて日本文学(=三島)の影響を意図的に隠蔽しているのだという。
しかし、どんなに「翻訳的」な日本語であっても、日本語は日本語である。日本がいまから138年前の明治革命以来、欧米文化を積極的に取り入れ、さらに、61年前の大敗戦以来、米国の支配下におかれ米国文化を取り入れてきたにしろ、日本列島に日本人らしき民族が現れ日本語を話し始めてから、何千年のときが経過している。近代日本文学はおそらく、表層の変化と基層の不変の間で揺れてきたに違いない。
本書では三島の『奔馬』と村上の『ダンス・ダンス・ダンス』の類似性の指摘を分析した後、その差異として、『奔馬』には決起行動(革命)、すなわち、腐敗、不正義に対する「闘い」が渇望され、一方の『ダンス・ダンス・ダンス』には高度資本主義社会すなわち無駄で無意味で幻想的なものとの「闘い」の可能性が探られているという。
三島も村上も「闘い」を描きながら、両者には闘いの「相手」、闘いの「質」、闘い「方」に大きな隔たりがあるというわけだ。三島の晩年は政治の季節だった。村上の登場は、学生運動が終息しマルクス主義が後退した時代だった。
さて、著者は、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫、村上春樹を一本の糸でつなぐ可能性を試行している。それが可能かどうかはわからない。可能・不可能というよりも、日本文学が日本語で書かれる以上、近代以降の小説家に基層の共同性を認めることは難しいことではない。村上が三島の小説の影響下で小説を書いた、という指摘も大いにあり得る。
日本の小説は、日本語で書かれる散文形式の1つ。時々の日本の小説には、過去現在の日本人小説家の互いの影響により、成立している。そこに換骨奪胎、本歌取り・・・が意識的にか無意識的にか行われることもあるし、日本の知識人の問題意識が意識的かつ無意識的に共有されることもある。結論は、“だからどうなんだ”ということ。
2006年3月21日火曜日
『スペイン巡礼史』
●関哲行〔著〕 ●講談社現代新書 ●740円(+税)
スペイン巡礼といえば、その終着点はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。中世(9世紀)、この地に聖ヤコブの遺骨が「発見」され、キリスト教の聖地の1つとなったといわれている。
私は2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、巡礼路に沿ってロマネスク美術(教会・聖堂等)を見るバスツアーに参加した。そんなこともあって、本書を購入した次第。
そのときの私のツアー参加の目的は、後述するが、ロマネスク美術におけるケルトの影響の「確認」が主眼だった。そのため、巡礼の知識を準備しなかった。もし、本書がそのとき手元にあったならば、私のツアー参加はもっと深みのあるものになったに違いない。本書はサンティアゴ巡礼の解説書として最も的確な書の1つだといって過言でない。
本書は、サンティアゴ巡礼に係る歴史的、政治的、経済的、宗教的、社会的な分析だ。そのすべてが興味深いのだが、私を含む人々の最大の関心は、サンティアゴ・デ・コンポステーラがなぜ、聖地となったのかということではないか。
サンティアゴとは聖ヤコブのこと。ヤコブはキリストの使徒の一人だ。彼らが活躍した地はオリエントだから、ヤコブの遺骨がスペイン北西で「発見」されたというのは、いくらなんでも無理がある――というのがわれわれ日本人の感覚だ。(日本にも、「義経=ジンギスカン説」というのがあるから、スペインのことを笑えないけれど)
さて、スペインは、古代地中海世界からも、中世西欧世界からも辺境に位置する。とりわけ、聖ヤコブの遺骨が「発見」された9世紀のスペインは、その領土のほとんどをイスラム勢力に制圧されていた。北部に封じ込まれたキリスト教圏においては、聖ヤコブの遺骨が「発見」されなければならない政治的条件が存在した。レコンキスタ(国土回復)における対イスラム戦争の英雄として、聖ヤコブがクローズアップされたりした。キリスト教の聖地がキリスト教圏のスペインになければならなかったのだ。
私は聖地の政治的側面にあまり興味がない。サンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となるには、政治的解析だけでは説明しきれないと思うからだ。本書はそのあたりを、シンクレティシズムによって説明する。シンクレティシズムとは習合という意味だ。新しい宗教を布教するためには、もともとあった宗教の神話、教義、神像、秘蹟等を借用する場合がある。日本の中世には、神仏習合が進んだ。
本書によると、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラは、スペインに先住したケルト民族が信仰していた原始宗教の聖地に由来するという。サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインのガリシア地方に位置し、ガリシアはいまなお、スパニッシュ・ケルトの文化的遺産が息づくところ。ドルメン等のケルトの原始宗教の遺跡等が残っているという。
ケルト信仰と習合した異端キリスト教布教運動は、4世紀、アビラ司教・ビレスキリアーヌスによって担われた。ビレスキリアーヌスは、キリスト教と、この地方に伝わるケルトの自然宗教を習合させ、多くの信者を獲得した。ところが、ローマ皇帝によって、異端キリスト教を布教したかどで、4世紀末に処刑されてしまう。しかし、以降、彼は当地の民衆から聖者として信仰の対象となった。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ビレスキリアーヌスの墓所でもあるという。
私がヨーロッパ先住民であるケルト民族とロマネスク美術の関係に関心があったことは冒頭に記したとおりであり、私がロマネスク美術のツアーに参加した理由も、ロマネスク美術におけるケルトの影響を「確認」することだった。本書には(私の最大の関心である)ケルト民族と聖地サンティアゴの関係はほんの数ページしか触れられていないけれど、それでも教えられるところが多い。
そればかりではない。本書には中世における巡礼(者)の実態、巡礼と都市学、施療院の役割など興味深い記述に溢れている。サンティアゴ巡礼を総合的に知るには、本書が必読の解説書の1つであることは間違いないところ。是非の一読をお奨めする。
私は2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、巡礼路に沿ってロマネスク美術(教会・聖堂等)を見るバスツアーに参加した。そんなこともあって、本書を購入した次第。
そのときの私のツアー参加の目的は、後述するが、ロマネスク美術におけるケルトの影響の「確認」が主眼だった。そのため、巡礼の知識を準備しなかった。もし、本書がそのとき手元にあったならば、私のツアー参加はもっと深みのあるものになったに違いない。本書はサンティアゴ巡礼の解説書として最も的確な書の1つだといって過言でない。
本書は、サンティアゴ巡礼に係る歴史的、政治的、経済的、宗教的、社会的な分析だ。そのすべてが興味深いのだが、私を含む人々の最大の関心は、サンティアゴ・デ・コンポステーラがなぜ、聖地となったのかということではないか。
サンティアゴとは聖ヤコブのこと。ヤコブはキリストの使徒の一人だ。彼らが活躍した地はオリエントだから、ヤコブの遺骨がスペイン北西で「発見」されたというのは、いくらなんでも無理がある――というのがわれわれ日本人の感覚だ。(日本にも、「義経=ジンギスカン説」というのがあるから、スペインのことを笑えないけれど)
さて、スペインは、古代地中海世界からも、中世西欧世界からも辺境に位置する。とりわけ、聖ヤコブの遺骨が「発見」された9世紀のスペインは、その領土のほとんどをイスラム勢力に制圧されていた。北部に封じ込まれたキリスト教圏においては、聖ヤコブの遺骨が「発見」されなければならない政治的条件が存在した。レコンキスタ(国土回復)における対イスラム戦争の英雄として、聖ヤコブがクローズアップされたりした。キリスト教の聖地がキリスト教圏のスペインになければならなかったのだ。
私は聖地の政治的側面にあまり興味がない。サンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となるには、政治的解析だけでは説明しきれないと思うからだ。本書はそのあたりを、シンクレティシズムによって説明する。シンクレティシズムとは習合という意味だ。新しい宗教を布教するためには、もともとあった宗教の神話、教義、神像、秘蹟等を借用する場合がある。日本の中世には、神仏習合が進んだ。
本書によると、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラは、スペインに先住したケルト民族が信仰していた原始宗教の聖地に由来するという。サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインのガリシア地方に位置し、ガリシアはいまなお、スパニッシュ・ケルトの文化的遺産が息づくところ。ドルメン等のケルトの原始宗教の遺跡等が残っているという。
ケルト信仰と習合した異端キリスト教布教運動は、4世紀、アビラ司教・ビレスキリアーヌスによって担われた。ビレスキリアーヌスは、キリスト教と、この地方に伝わるケルトの自然宗教を習合させ、多くの信者を獲得した。ところが、ローマ皇帝によって、異端キリスト教を布教したかどで、4世紀末に処刑されてしまう。しかし、以降、彼は当地の民衆から聖者として信仰の対象となった。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ビレスキリアーヌスの墓所でもあるという。
私がヨーロッパ先住民であるケルト民族とロマネスク美術の関係に関心があったことは冒頭に記したとおりであり、私がロマネスク美術のツアーに参加した理由も、ロマネスク美術におけるケルトの影響を「確認」することだった。本書には(私の最大の関心である)ケルト民族と聖地サンティアゴの関係はほんの数ページしか触れられていないけれど、それでも教えられるところが多い。
そればかりではない。本書には中世における巡礼(者)の実態、巡礼と都市学、施療院の役割など興味深い記述に溢れている。サンティアゴ巡礼を総合的に知るには、本書が必読の解説書の1つであることは間違いないところ。是非の一読をお奨めする。
2006年2月25日土曜日
『ラングドックの歴史』
●エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ[著] ●白水社 ●951円+税
この地方の最初の定住者については詳らかではないが、中欧起源のケルト民族の支配から始まり、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人がこの地の支配者となり、今日に至っている。その間、オリエント、エジプト人もこの地を舞台に活躍した。
現在はフランスの一地域だが、古代から中世までは、ローマ教会に同調した北部フランスとは別の民族、言語、文化、宗教を築き、政治経済においても、独立した地位を保っていた。
筆者は“中世のラングドック”に興味を覚えた。その1つが「カタリ派」だ。「カタリ派」とはキリスト教の異端で、この地に勢力を伸ばした。「カタリ派」の教義についてはよく分からない部分も多いのだが、一夫多妻制を堅持していたといわれ、カトリックとはかけ離れた「キリスト教」だったらしい。北部フランスは、ローマ教会と共謀して「アルビジョア十字軍」を組織し、この地に侵攻を企てた。北部フランス=ローマ教会は「カタリ派」を軍事的に制圧・虐殺する。と同時に、同地の地方権力を倒して支配権を確立する。北部フランスの制圧と並行してオック語が後退し、いまのフランス語に近いオイル語が漸次定着していく。
もう1つの私の興味の対象は、この地に花開いた、トルバドゥール(吟遊詩人)の存在だ。吟遊詩人が好んだ素材は、なんと、人妻への思慕――人妻の肉体そのものへの憧憬・恋慕だというから、かなり屈折している。私は現代フランス語も中世オック語も解らないが、吟遊詩人の情念が気にかかった。中世、ラングドックの詩学は、禁欲的なカトリックの土壌からは生まれないものだ。
3つ目の興味はロマネスク美術だ。中世、スペインのガリシア地方に位置するサンチャゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺物が発見された。欧州各地からサンチャゴを目指して巡礼が盛んになると、その経路には、ロマネスク様式の教会、聖堂等が多数建設された。ラングドック地方もその巡礼路に当たり、この地の最大都市トゥールーズにはロマネスクの至宝の1つといわれるサンセルナン寺院が残っている。
さて、こうして見ると、ラングドック文化は豊かで美しいのだが、この地は血塗られた歴史が認められる。「カタリ派」虐殺は前述したとおりだが、中世後期には、この地を舞台に、カトリックとプロテスタントの対立による宗教戦争が繰り広げられたし、18世紀にはフランス革命における王党派と共和派の闘争もあった。
本書はラングドックの通史である。そのため、筆者の興味の中心である中世に限定されたものではない。フランス革命以降、20世紀前半のマルクス主義の台頭と左翼勢力の定着の記述部分もある。ラングドックを知らずして、フランスを語るなかれ・・・といえるのかもしれない。
サンセルナン寺院 トゥールーズ 筆者撮影 |
ラングドックとは現在のフランス南西部を指す名称で、オック語という意味。オック語はラテン語起源の言語だが、現在のフランス語の祖語であるオイル語とは異なる。
この地方の最初の定住者については詳らかではないが、中欧起源のケルト民族の支配から始まり、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人がこの地の支配者となり、今日に至っている。その間、オリエント、エジプト人もこの地を舞台に活躍した。
現在はフランスの一地域だが、古代から中世までは、ローマ教会に同調した北部フランスとは別の民族、言語、文化、宗教を築き、政治経済においても、独立した地位を保っていた。
筆者は“中世のラングドック”に興味を覚えた。その1つが「カタリ派」だ。「カタリ派」とはキリスト教の異端で、この地に勢力を伸ばした。「カタリ派」の教義についてはよく分からない部分も多いのだが、一夫多妻制を堅持していたといわれ、カトリックとはかけ離れた「キリスト教」だったらしい。北部フランスは、ローマ教会と共謀して「アルビジョア十字軍」を組織し、この地に侵攻を企てた。北部フランス=ローマ教会は「カタリ派」を軍事的に制圧・虐殺する。と同時に、同地の地方権力を倒して支配権を確立する。北部フランスの制圧と並行してオック語が後退し、いまのフランス語に近いオイル語が漸次定着していく。
もう1つの私の興味の対象は、この地に花開いた、トルバドゥール(吟遊詩人)の存在だ。吟遊詩人が好んだ素材は、なんと、人妻への思慕――人妻の肉体そのものへの憧憬・恋慕だというから、かなり屈折している。私は現代フランス語も中世オック語も解らないが、吟遊詩人の情念が気にかかった。中世、ラングドックの詩学は、禁欲的なカトリックの土壌からは生まれないものだ。
3つ目の興味はロマネスク美術だ。中世、スペインのガリシア地方に位置するサンチャゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺物が発見された。欧州各地からサンチャゴを目指して巡礼が盛んになると、その経路には、ロマネスク様式の教会、聖堂等が多数建設された。ラングドック地方もその巡礼路に当たり、この地の最大都市トゥールーズにはロマネスクの至宝の1つといわれるサンセルナン寺院が残っている。
さて、こうして見ると、ラングドック文化は豊かで美しいのだが、この地は血塗られた歴史が認められる。「カタリ派」虐殺は前述したとおりだが、中世後期には、この地を舞台に、カトリックとプロテスタントの対立による宗教戦争が繰り広げられたし、18世紀にはフランス革命における王党派と共和派の闘争もあった。
本書はラングドックの通史である。そのため、筆者の興味の中心である中世に限定されたものではない。フランス革命以降、20世紀前半のマルクス主義の台頭と左翼勢力の定着の記述部分もある。ラングドックを知らずして、フランスを語るなかれ・・・といえるのかもしれない。
2006年2月13日月曜日
『末期ローマ帝国』
●ジャン・レミ・パランク[著] ●白水社(文庫クセジュ) ●951円+税
ローマ帝国を“ラテン”という一つの概念で括ることはできない。ローマはラテンとギリシアの2つの文化圏の合成であった。キリスト教がローマ支配下のパレスチナで成立したことは常識だが、この宗教が西方に伝播する過程で多大な影響を受けたのがギリシア哲学だった。ギリシア文化の拠点都市として、アレクサンドリア、アンティオキアなどがあった。もちろん、後にローマが東西に分裂し、その一方である東ローマ帝国の首都となった小アジアのコンスタンチノーブルもその1つだ。
さて、領土拡大を続けたローマ帝国が支配地域を統治する制度として、必然的に採用せざるを得なかったのが「四分治制」だった。「四分治制」は293年に発足した。この分割統治の形態が、ローマ帝国分裂の下地となったともいえる。帝国が永遠に繁栄を維持することはできないものなのか。
年表で整理すれば、375年=ゲルマン民族大移動開始、 392年=キリスト教の国教化、 395年= ローマ帝国東西分裂、5世紀初め=ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国、476年=西ローマ帝国滅亡、486年= フランク王国建国 、 527年=ユスティニアヌス、東ローマ皇帝に。ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人国家である東ゴート王国、バンダル王国を滅ぼし、以降、東ローマは800年以上存続した。
冒頭に書いたとおり、末期ローマ帝国は混乱と荒廃の時代だったが、筆者はこの時代のヨーロッパに魅力と興味を感じる。世界史の中で、もっともおもしろく、不思議な時代の1つなのではないか。強大な軍事力と統治能力をもったローマが、蛮族と呼ばれたゲルマン人と共存する道をなぜ、みつけられなかったのか。本書読了後もその回答は得られていない。
本題の『末期ローマ帝国』とは、3世紀末から6世紀末までの300年間をいう。拡大を続けたローマ帝国が没落を迎える時期ではあるが、政治・経済・宗教・文化等の領域で、次代すなわち中世へ橋渡しをする重要なファクターがこの時期に育まれたという見方がある。最も重要なファクターの1つは、ローマ帝国がキリスト教を受容したことかもしれない。帝国の国境付近にはフン族に追われたゲルマン民族が帝国領内への侵入をうかがう。内に外にローマは帝国の存続を揺るがす問題を山積させていた。
ローマ帝国を“ラテン”という一つの概念で括ることはできない。ローマはラテンとギリシアの2つの文化圏の合成であった。キリスト教がローマ支配下のパレスチナで成立したことは常識だが、この宗教が西方に伝播する過程で多大な影響を受けたのがギリシア哲学だった。ギリシア文化の拠点都市として、アレクサンドリア、アンティオキアなどがあった。もちろん、後にローマが東西に分裂し、その一方である東ローマ帝国の首都となった小アジアのコンスタンチノーブルもその1つだ。
さて、領土拡大を続けたローマ帝国が支配地域を統治する制度として、必然的に採用せざるを得なかったのが「四分治制」だった。「四分治制」は293年に発足した。この分割統治の形態が、ローマ帝国分裂の下地となったともいえる。帝国が永遠に繁栄を維持することはできないものなのか。
年表で整理すれば、375年=ゲルマン民族大移動開始、 392年=キリスト教の国教化、 395年= ローマ帝国東西分裂、5世紀初め=ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国、476年=西ローマ帝国滅亡、486年= フランク王国建国 、 527年=ユスティニアヌス、東ローマ皇帝に。ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人国家である東ゴート王国、バンダル王国を滅ぼし、以降、東ローマは800年以上存続した。
冒頭に書いたとおり、末期ローマ帝国は混乱と荒廃の時代だったが、筆者はこの時代のヨーロッパに魅力と興味を感じる。世界史の中で、もっともおもしろく、不思議な時代の1つなのではないか。強大な軍事力と統治能力をもったローマが、蛮族と呼ばれたゲルマン人と共存する道をなぜ、みつけられなかったのか。本書読了後もその回答は得られていない。
2006年1月28日土曜日
『古代のイギリス』
●ピーター・サルウェイ[著] ●岩波書店 ●1500円+税
本題について整理しておこう。訳者の南川高志氏が「あとがき」でことわっているように、『古代のイギリス』というタイトルはふさわしくない。原題は『ROMAM
BRITAIN』だから、“ローマ時代のブリテン島”くらいがふさわしい。
そもそも、「イギリス」とは誤解を与えやすい表記だ。まず、現在のグレートブリテンを国際政治の観点からみてみよう。日本でいう「イギリス」は無意識のうちに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを、さらに、アイルランド共和国の存在までも消去させてしまう。そもそも、ローマ帝国がブリテン島を征服する前、先史ヨーロッパ人が存在し、やがて、中欧からやってきたケルト人が彼らを滅ぼしたというのが定説の1つになっている。
紀元前1世紀、カエサルがブリテン島を征服し、ローマ支配が始まった。その後、蛮族の侵入により、ゲルマン系のサクソン人がブリテン島の支配者となり、やがて、ノルマン人(イングランド)がそれにとって代わり、今日に至っている。その間今日まで、直近の征服者イングランドと、スコットランド、ウェールズ、アイルランドとの抗争が続いている。直近の征服者・イングランドを日本では、「イギリス」という。
さて、本書は、ROMAM BRITAINの翻訳部分と、訳者南川氏のイギリスにおけるローマ史跡の案内である「イギリスで『古代ローマ文明』を楽しもう」の二部構成になっている。翻訳部分は、ブリテン島とローマ帝国に関する歴史研究だ。本書から、ローマ帝国がなぜ、ブリテン島征服に注力したのかをうかがい知ることができる。古代の地中海世界にあって、ブリテン島は世界の果てだった。ローマの権力者、とりわけ、軍部出身者がそこを支配したということは、自らが世界の支配者であることを証明することになったのだ。
研究部分に不満がある。一番の不満はローマ帝国に支配された側の視点がないことだ。ケルト人(イギリスではブリテン島先住民をケルトと呼ばないらしいが)の立場が欠けているから、ローマ支配の実態が分かりにくい。遺跡からハード部分を知ることはできても、ソフト部分が、たとえば、ローマの宗教とケルトの宗教がどのように融合したのかがわかりにくい。
その一方、本書の優れた点は、ブリテン島におけるローマの影響を広く知らしめたことだ。日本人にとって、ブリテン島におけるローマの影響は盲点だった。私のような「ケルトファン」にとっても、歴史の隙間だった。ローマ支配を経験した欧州の代表的地域はフランスだが、世界史好きの日本人ならば、古代フランスをガロ=ロマニアと呼ぶ歴史概念は常識になっている。ところが、「イギリス」の歴史の中に、ロマニア=ブリトンという概念を知る人は少ない。フランス語がラテン語系であるから影響が強いと考え、英語がゲルマン(サクソン)語系だから、ローマの影響を低いとみてしまうのかもしれない。
本書が「イギリス」の複合性を知るきっかけになればいい。そして、ローマ帝国の大きさを改めて知ることもムダではない。
そもそも、「イギリス」とは誤解を与えやすい表記だ。まず、現在のグレートブリテンを国際政治の観点からみてみよう。日本でいう「イギリス」は無意識のうちに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを、さらに、アイルランド共和国の存在までも消去させてしまう。そもそも、ローマ帝国がブリテン島を征服する前、先史ヨーロッパ人が存在し、やがて、中欧からやってきたケルト人が彼らを滅ぼしたというのが定説の1つになっている。
紀元前1世紀、カエサルがブリテン島を征服し、ローマ支配が始まった。その後、蛮族の侵入により、ゲルマン系のサクソン人がブリテン島の支配者となり、やがて、ノルマン人(イングランド)がそれにとって代わり、今日に至っている。その間今日まで、直近の征服者イングランドと、スコットランド、ウェールズ、アイルランドとの抗争が続いている。直近の征服者・イングランドを日本では、「イギリス」という。
さて、本書は、ROMAM BRITAINの翻訳部分と、訳者南川氏のイギリスにおけるローマ史跡の案内である「イギリスで『古代ローマ文明』を楽しもう」の二部構成になっている。翻訳部分は、ブリテン島とローマ帝国に関する歴史研究だ。本書から、ローマ帝国がなぜ、ブリテン島征服に注力したのかをうかがい知ることができる。古代の地中海世界にあって、ブリテン島は世界の果てだった。ローマの権力者、とりわけ、軍部出身者がそこを支配したということは、自らが世界の支配者であることを証明することになったのだ。
研究部分に不満がある。一番の不満はローマ帝国に支配された側の視点がないことだ。ケルト人(イギリスではブリテン島先住民をケルトと呼ばないらしいが)の立場が欠けているから、ローマ支配の実態が分かりにくい。遺跡からハード部分を知ることはできても、ソフト部分が、たとえば、ローマの宗教とケルトの宗教がどのように融合したのかがわかりにくい。
その一方、本書の優れた点は、ブリテン島におけるローマの影響を広く知らしめたことだ。日本人にとって、ブリテン島におけるローマの影響は盲点だった。私のような「ケルトファン」にとっても、歴史の隙間だった。ローマ支配を経験した欧州の代表的地域はフランスだが、世界史好きの日本人ならば、古代フランスをガロ=ロマニアと呼ぶ歴史概念は常識になっている。ところが、「イギリス」の歴史の中に、ロマニア=ブリトンという概念を知る人は少ない。フランス語がラテン語系であるから影響が強いと考え、英語がゲルマン(サクソン)語系だから、ローマの影響を低いとみてしまうのかもしれない。
本書が「イギリス」の複合性を知るきっかけになればいい。そして、ローマ帝国の大きさを改めて知ることもムダではない。
2005年12月20日火曜日
『トルコ史』
●ロベール・マントラン[著] ●白水社 ●951円+税
トルコ族の登場は、紀元前1千年期だと言われている。遊牧騎馬民族である彼らトルコ族は、東はモンゴル高原から中央アジアを経て小アジアに至るまで、広大なユーラシア大陸を自由奔放に移動していた。そんなトルコ民族が小アジアに定住して最初に帝国を築いたのが10世紀末から11世紀のこと。その帝国はトルコ民族の一派であるセルジューク族によって建国されたため、セルジューク朝と呼ばれた。
11世紀、西欧(フランク)が組織した十字軍がイスラーム世界に侵略を開始し、聖地エルサレムが十字軍によって奪われ、現在のシリア、エジプトの各所に十字軍国家が建国された。そうしたイスラーム世界の危機に及んで、イスラーム世界の軍事的統合に成功し、十字軍への反撃を組織し、ついにはエルサレム奪回、十字軍撃退を果たしたイスラームの英雄・サラディンはトルコ人だった。11世紀以降のイスラーム世界の主役は、アラブ族からトルコ族に交代していたようだ。
13世紀、モンゴル族に追われたトルコ族の一派・オグズ族に属するカイゥ族がアナトリアに建国したオスマン朝は14世紀、小アジアからヨーロッパ世界にまで版図を広げた。オスマントルコは小アジアを拠点に、ヨーロッパ世界を脅かす勢力を保持し、14世紀以降、世界で最も進んだ文明の1つを維持した。
しかし、さしものオスマン帝国も17世紀以降衰退に向かい、西欧、ギリシア、台頭する北東の大国ロシアと確執を繰り返した。そして、トルコが第一世界大戦のドイツ側への参戦、敗北をもってその命運もつき、1924年、トルコ共和国が成立した。
本書は、トルコ族の雄大な歴史を簡易にまとめた入門書である。トルコ族は歴史に登場して以来、ユーラシア大陸の東西の強国・中国とヨーロッパを脅かしつつ、オスマン期にはそれらを凌駕する強大な帝国となった。
こうしたトルコ族の歴史の大筋は理解できるものの、謎も多い。とりわけ、イスラーム化以前のトルコ族の歴史はほとんどわかっていない。5世紀、ヨーロッパを席巻したフン族と匈奴の関係もその1つ。匈奴=フン族が、トルコ系同一民族であるという説がある一方、匈奴・フン族がともに、トルコ系民族だと断言できる物証はないという説もある。
さて時代は下って、オスマン帝国時代、オスマン帝国は隣接する国々と大きな摩擦をおこし、オスマントルコによる民族浄化と思しき虐殺も記録されている。また、19~20世紀初頭、トルコ支配下にあったアラブが独立を求めたとき、西欧は石油利権を見越して、アラブの独立運動を裏切った。近代のトルコの歴史もまた複雑である。
トルコ族の登場は、紀元前1千年期だと言われている。遊牧騎馬民族である彼らトルコ族は、東はモンゴル高原から中央アジアを経て小アジアに至るまで、広大なユーラシア大陸を自由奔放に移動していた。そんなトルコ民族が小アジアに定住して最初に帝国を築いたのが10世紀末から11世紀のこと。その帝国はトルコ民族の一派であるセルジューク族によって建国されたため、セルジューク朝と呼ばれた。
11世紀、西欧(フランク)が組織した十字軍がイスラーム世界に侵略を開始し、聖地エルサレムが十字軍によって奪われ、現在のシリア、エジプトの各所に十字軍国家が建国された。そうしたイスラーム世界の危機に及んで、イスラーム世界の軍事的統合に成功し、十字軍への反撃を組織し、ついにはエルサレム奪回、十字軍撃退を果たしたイスラームの英雄・サラディンはトルコ人だった。11世紀以降のイスラーム世界の主役は、アラブ族からトルコ族に交代していたようだ。
13世紀、モンゴル族に追われたトルコ族の一派・オグズ族に属するカイゥ族がアナトリアに建国したオスマン朝は14世紀、小アジアからヨーロッパ世界にまで版図を広げた。オスマントルコは小アジアを拠点に、ヨーロッパ世界を脅かす勢力を保持し、14世紀以降、世界で最も進んだ文明の1つを維持した。
しかし、さしものオスマン帝国も17世紀以降衰退に向かい、西欧、ギリシア、台頭する北東の大国ロシアと確執を繰り返した。そして、トルコが第一世界大戦のドイツ側への参戦、敗北をもってその命運もつき、1924年、トルコ共和国が成立した。
本書は、トルコ族の雄大な歴史を簡易にまとめた入門書である。トルコ族は歴史に登場して以来、ユーラシア大陸の東西の強国・中国とヨーロッパを脅かしつつ、オスマン期にはそれらを凌駕する強大な帝国となった。
こうしたトルコ族の歴史の大筋は理解できるものの、謎も多い。とりわけ、イスラーム化以前のトルコ族の歴史はほとんどわかっていない。5世紀、ヨーロッパを席巻したフン族と匈奴の関係もその1つ。匈奴=フン族が、トルコ系同一民族であるという説がある一方、匈奴・フン族がともに、トルコ系民族だと断言できる物証はないという説もある。
さて時代は下って、オスマン帝国時代、オスマン帝国は隣接する国々と大きな摩擦をおこし、オスマントルコによる民族浄化と思しき虐殺も記録されている。また、19~20世紀初頭、トルコ支配下にあったアラブが独立を求めたとき、西欧は石油利権を見越して、アラブの独立運動を裏切った。近代のトルコの歴史もまた複雑である。
2005年12月10日土曜日
『アッチラとフン族』
●ルイ・アンビス[著] ●白水社 ●951円+税
紀元4~5世紀ごろ、広大なユーラシア大陸の東西に2つの帝国が君臨していた。東には中国、西にはローマである。そして、2つの帝国はどちらも、遊牧騎馬民族の侵入に悩まされていた。中国を襲った異民族は匈奴と、また、ローマを襲った異民族はフンと、それぞれよばれた。
匈奴はおそらく、ウラル山脈以東のある地域を原郷とし、フンはウクライナ以西(スキティア)のある地域を原郷としたに違いないのだが、匈奴はギリシア語で「クーノイ」(Χοόνι・単数形Χουν)となり、紀元6世紀頃にアルタイ山脈にいたトルコ系の一部族を示す中国語「Houen」に該当するという。匈奴を中国語で「フルン」(frun)、「クン」(kouen)と発音すると、フンと通じるところから、両者を同一民族と看做す学説が有力である一方、その確証はないとする学説も根強く、本書は後者の「異民族説」に立っている。
5世紀、フン族及びその周辺の遊牧民族等を統一し、ウクライナから中部ヨーロッパにかけて広大な帝国を築いたのがアッチラである。本書によると、《ヨルダニス(6世紀、南ロシア生まれの修道士、歴史家。『ゲート人の事績』『ローマ民族史』などの著書がある。)が描くアッチラの肖像は、背が低く胸幅が広い。頭は大きく、目は小さくて落ち窪んでいる。眉弓は高く飛び出し、鼻は平たく、色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである。ひげはあまり生えていない》という。ヨルダニスの描写のうちの「色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである」という部分を除くと、現在のモンゴル系に近いように思えるが、色が黒いという描写を真に受けると、高アジア系(トルコ系、チベット系、中央アジア系)と思える。
フンの歴史的な役割というか、重要性とはいうまでもなく、彼らの圧力によりアラン族(イラン系)が西に移動し、そのあおりを受けて、黒海あたりまで南下してきたゲルマン系ゴート族がさらに西に押し出され、ローマ帝国領内に移動を開始したことにある。
フンの侵攻は暴虐を極め、ゴート族はじめ、その当たりに定住を試みていたゲルマン人みな恐れおののいてローマ帝国内に逃げ込んだといわれている。ローマ帝国内に移動したゴート族がローマを一時期支配し、ローマ帝国の滅亡を招くことになったことから、フンが西欧(ヨーロッパ)の成立を促したとも言える。
さて、フン帝国の領土拡大を図るアッチラは、ゴート族を追撃するかのようにローマに向けて政治的・軍事的圧力を加え続けたばかりか、周辺のゲルマン系、遊牧系の諸民族を支配下におき、兵士として吸収し軍事力の増大を図った。ところが、定住農耕民でない彼らには、膨らんだ軍事力(兵士)を養う経済手段がない。彼らはいわば、略奪経済に依拠していたのであり、略奪の量が兵士を養う量を下回れば、戦闘を維持することが困難となり、さしものアッチラもイタリアを支配することはできなかった。そして、その間、力を蓄えてきたサルマチア族、東西ゴート族らのゲルマン諸族の連合勢力より東に押し返され、453年、アッチラは死去した。アッチラ死後、フンの勢力は衰え、その後にやってきたブルガール族や、前出のサルマチアや、ゴートらに吸収されるかのように、フンは歴史の表舞台から忽然と消え去ってしまうのである。
4~5世紀にかけてのフンのヨーロッパ世界への登場は、大型台風の襲来に似ている。大型台風の去った後、ヨーロッパの風景は一変する。この地の主役は、〈ローマ〉から、かつてフンに追われて逃げ延びてきた、〈ゲルマン〉にとって代わってしまうのである。
本書によると、フンに関する考古学的遺跡は少ない。彼らの文化的、人種的特徴等については推測、想像の域を脱しない部分も多い。それだけに、フンと匈奴の同一民族説も魅力的である。
筆者の中では、広大なユーラシアを駆け抜けた遊牧騎馬民族に対するロマンは、留まるところを知らないのだが、懸念すべきは、中欧・東欧における政治勢力が、フンの末裔を自称し、覇権の旗印として「フン」を復古・悪用することである。いまのところ、そのような政治的動きは認められないが、歴史上の「強者」が、現代政治に引用されることは危険な兆候の1つである。日本では、戦国武将の一人・織田信長が、政治的に悪用されている。
紀元4~5世紀ごろ、広大なユーラシア大陸の東西に2つの帝国が君臨していた。東には中国、西にはローマである。そして、2つの帝国はどちらも、遊牧騎馬民族の侵入に悩まされていた。中国を襲った異民族は匈奴と、また、ローマを襲った異民族はフンと、それぞれよばれた。
匈奴はおそらく、ウラル山脈以東のある地域を原郷とし、フンはウクライナ以西(スキティア)のある地域を原郷としたに違いないのだが、匈奴はギリシア語で「クーノイ」(Χοόνι・単数形Χουν)となり、紀元6世紀頃にアルタイ山脈にいたトルコ系の一部族を示す中国語「Houen」に該当するという。匈奴を中国語で「フルン」(frun)、「クン」(kouen)と発音すると、フンと通じるところから、両者を同一民族と看做す学説が有力である一方、その確証はないとする学説も根強く、本書は後者の「異民族説」に立っている。
5世紀、フン族及びその周辺の遊牧民族等を統一し、ウクライナから中部ヨーロッパにかけて広大な帝国を築いたのがアッチラである。本書によると、《ヨルダニス(6世紀、南ロシア生まれの修道士、歴史家。『ゲート人の事績』『ローマ民族史』などの著書がある。)が描くアッチラの肖像は、背が低く胸幅が広い。頭は大きく、目は小さくて落ち窪んでいる。眉弓は高く飛び出し、鼻は平たく、色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである。ひげはあまり生えていない》という。ヨルダニスの描写のうちの「色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである」という部分を除くと、現在のモンゴル系に近いように思えるが、色が黒いという描写を真に受けると、高アジア系(トルコ系、チベット系、中央アジア系)と思える。
フンの歴史的な役割というか、重要性とはいうまでもなく、彼らの圧力によりアラン族(イラン系)が西に移動し、そのあおりを受けて、黒海あたりまで南下してきたゲルマン系ゴート族がさらに西に押し出され、ローマ帝国領内に移動を開始したことにある。
フンの侵攻は暴虐を極め、ゴート族はじめ、その当たりに定住を試みていたゲルマン人みな恐れおののいてローマ帝国内に逃げ込んだといわれている。ローマ帝国内に移動したゴート族がローマを一時期支配し、ローマ帝国の滅亡を招くことになったことから、フンが西欧(ヨーロッパ)の成立を促したとも言える。
さて、フン帝国の領土拡大を図るアッチラは、ゴート族を追撃するかのようにローマに向けて政治的・軍事的圧力を加え続けたばかりか、周辺のゲルマン系、遊牧系の諸民族を支配下におき、兵士として吸収し軍事力の増大を図った。ところが、定住農耕民でない彼らには、膨らんだ軍事力(兵士)を養う経済手段がない。彼らはいわば、略奪経済に依拠していたのであり、略奪の量が兵士を養う量を下回れば、戦闘を維持することが困難となり、さしものアッチラもイタリアを支配することはできなかった。そして、その間、力を蓄えてきたサルマチア族、東西ゴート族らのゲルマン諸族の連合勢力より東に押し返され、453年、アッチラは死去した。アッチラ死後、フンの勢力は衰え、その後にやってきたブルガール族や、前出のサルマチアや、ゴートらに吸収されるかのように、フンは歴史の表舞台から忽然と消え去ってしまうのである。
4~5世紀にかけてのフンのヨーロッパ世界への登場は、大型台風の襲来に似ている。大型台風の去った後、ヨーロッパの風景は一変する。この地の主役は、〈ローマ〉から、かつてフンに追われて逃げ延びてきた、〈ゲルマン〉にとって代わってしまうのである。
本書によると、フンに関する考古学的遺跡は少ない。彼らの文化的、人種的特徴等については推測、想像の域を脱しない部分も多い。それだけに、フンと匈奴の同一民族説も魅力的である。
筆者の中では、広大なユーラシアを駆け抜けた遊牧騎馬民族に対するロマンは、留まるところを知らないのだが、懸念すべきは、中欧・東欧における政治勢力が、フンの末裔を自称し、覇権の旗印として「フン」を復古・悪用することである。いまのところ、そのような政治的動きは認められないが、歴史上の「強者」が、現代政治に引用されることは危険な兆候の1つである。日本では、戦国武将の一人・織田信長が、政治的に悪用されている。
2005年11月20日日曜日
『小泉純一郎と日本の病理』
●藤原肇[著] ●光文社 ●952円+税
小泉首相は、超法規的解散後、9.11総選挙で歴史的大勝をおさめた。小泉首相が掲げた、“郵政解散”と“構造改革”が国民の支持を得たわけだが、この国民の審判が、「小泉純一郎という病者」と「日本国民の病理」の合流により下されたものだったとしたら、日本は破滅に進むことだけは間違いない。本書の論旨を大雑把に言えば、そんなところだ。
著者は、小泉首相の「病状」の解析から始める。小泉首相が三代目の政治家であることはよく知られているが、初代が港湾都市・横須賀の闇勢力に通じていたこと、二代目が大政翼賛会に通じていたことについては、管見の限りだが報道がない。
また、小泉首相の英国留学が、小泉青年が日本国内で起こした婦女暴行事件の追求から身を潜めるためだった疑いがもたれていることも、報道されていない。加えて、小泉首相の離婚、実の姉との緊密な関係等々の私生活にまつわる怪しさについても、一時期週刊誌で報道された程度だ。本書の情報からすると、小泉首相の精神構造は、常人と異なる可能性が高い。小泉政権誕生の立役者でありながら、後に小泉首相から切られた田中真紀子元外務大臣は、既に小泉首相を「変人」と看破している。
小泉政権の政策上の欠陥については、いろいろと指摘されている。「郵政民営化」に代表される「聖域なき改革」が掛け声だけで、既得権益はしっかり守られていることは周知の事実だ。
そればかりではない。戦後日本に設けられたセイフティーネットは小泉政権によっておおよそ外され、弱肉強食、勝ち組、負け組による階級社会が形成されつつある。財政は破綻し、国債発行は止まるところを知らない。この先やってくるのは、増税による国民生活破壊だ。
著者は小泉政権下の日本の社会経済を「賎民資本主義」と呼ぶ。著者は資本主義のエートスを“公共善”という概念に求め、その実現を放棄した日本の経済人・経済活動・経済社会を批判する。それこそが日本の病理にほかならないと。
著者は日本の「賎民資本主義」に対峙する概念として、米国中西部の共和精神を持ち出し、そこに資本主義の理想を見る。私は著者の小泉批判に同感する部分もあるが、著者が米国中西部の共和主義を理想とすることには賛成できない。米国の共和主義とは、独立自尊、勤勉・禁欲を核とした(キリスト教)新教の思想だ。
筆者は、英国から新大陸・米国に渡ってきた新教徒の精神性こそが病理そのものだと思っている。彼らはアメリカ先住民を殺戮して居住地に追いやった。独立戦争後、広大な大陸を手に入れた彼らは、まず、飢餓にあえぐアイルランド人(旧教徒)を奴隷として新大陸に送り込み、過酷な開拓事業に従事させた。新教徒は米国建国の主体であるが、その成功の裏側には、無数の先住民とアイルランド人の犠牲が隠されている。だから私は、米国の共和主義を理想とする著者の価値観をまず信じない。
さて、話は横道にそれてしまったが、9.11総選挙で小泉政権がなぜ、国民に圧倒的に信任されたのか。本書には、若者のルサンチマンがやぶれかぶれの「小泉解散」と共鳴したこと、テレビの影響・・・などなどの回答はあるものの、十分だとはいえない。そのあたりの社会学的分析が望まれる。
本書は日本社会の現状分析について物足りない部分も多いが、著者が心配するように、日本社会がファシズムへの道を歩み始めている、という指摘に同感だ。私は著者と価値観を共有しないけれど、「日本が危ない」という著者の警鐘にはは耳を傾けるべきだと思う。
著者は、小泉首相の「病状」の解析から始める。小泉首相が三代目の政治家であることはよく知られているが、初代が港湾都市・横須賀の闇勢力に通じていたこと、二代目が大政翼賛会に通じていたことについては、管見の限りだが報道がない。
また、小泉首相の英国留学が、小泉青年が日本国内で起こした婦女暴行事件の追求から身を潜めるためだった疑いがもたれていることも、報道されていない。加えて、小泉首相の離婚、実の姉との緊密な関係等々の私生活にまつわる怪しさについても、一時期週刊誌で報道された程度だ。本書の情報からすると、小泉首相の精神構造は、常人と異なる可能性が高い。小泉政権誕生の立役者でありながら、後に小泉首相から切られた田中真紀子元外務大臣は、既に小泉首相を「変人」と看破している。
小泉政権の政策上の欠陥については、いろいろと指摘されている。「郵政民営化」に代表される「聖域なき改革」が掛け声だけで、既得権益はしっかり守られていることは周知の事実だ。
そればかりではない。戦後日本に設けられたセイフティーネットは小泉政権によっておおよそ外され、弱肉強食、勝ち組、負け組による階級社会が形成されつつある。財政は破綻し、国債発行は止まるところを知らない。この先やってくるのは、増税による国民生活破壊だ。
著者は小泉政権下の日本の社会経済を「賎民資本主義」と呼ぶ。著者は資本主義のエートスを“公共善”という概念に求め、その実現を放棄した日本の経済人・経済活動・経済社会を批判する。それこそが日本の病理にほかならないと。
著者は日本の「賎民資本主義」に対峙する概念として、米国中西部の共和精神を持ち出し、そこに資本主義の理想を見る。私は著者の小泉批判に同感する部分もあるが、著者が米国中西部の共和主義を理想とすることには賛成できない。米国の共和主義とは、独立自尊、勤勉・禁欲を核とした(キリスト教)新教の思想だ。
筆者は、英国から新大陸・米国に渡ってきた新教徒の精神性こそが病理そのものだと思っている。彼らはアメリカ先住民を殺戮して居住地に追いやった。独立戦争後、広大な大陸を手に入れた彼らは、まず、飢餓にあえぐアイルランド人(旧教徒)を奴隷として新大陸に送り込み、過酷な開拓事業に従事させた。新教徒は米国建国の主体であるが、その成功の裏側には、無数の先住民とアイルランド人の犠牲が隠されている。だから私は、米国の共和主義を理想とする著者の価値観をまず信じない。
さて、話は横道にそれてしまったが、9.11総選挙で小泉政権がなぜ、国民に圧倒的に信任されたのか。本書には、若者のルサンチマンがやぶれかぶれの「小泉解散」と共鳴したこと、テレビの影響・・・などなどの回答はあるものの、十分だとはいえない。そのあたりの社会学的分析が望まれる。
本書は日本社会の現状分析について物足りない部分も多いが、著者が心配するように、日本社会がファシズムへの道を歩み始めている、という指摘に同感だ。私は著者と価値観を共有しないけれど、「日本が危ない」という著者の警鐘にはは耳を傾けるべきだと思う。
2005年11月15日火曜日
『夕陽が眼にしみる 歩く、読む』
●沢木耕太郎[著] ●文春文庫 ●476円+税
本書は「夕陽が眼にしみる」と題された著者の旅(=歩く)についての記述と、「苦い報酬」と題された作家論・書評(=読む)の2編にて構成されている。前者は、著者・沢木の処女作にして代表作の1つである『深夜特急』を補足するものかのようだ。
旅には、いろいろなあり方がある。若いときの一人旅、老夫婦の二人旅、恋人同士の甘い旅、さらには逃避行や武者修行といった、切羽詰った目的の旅もある。だから、沢木がここに記した旅の論は、旅全体の一部に該当する。年齢や境遇によって、旅の論は千差万別に至る。私は、だから、「夕陽が眼にしみる」についてあれこれ言う気にならない。
後者については、沢木が批評した作家、作品のほとんどを私が読んでいないので、これまた、論評を避けたい。ただ、中の例外の一編として、近藤紘一についてふれた論考(「彼の視線」)があった。
近藤は、唯一沢木と共有できる作家なので、それについて、思うところを以下に記してみたい。
私は、筆者(沢木耕太郎)が近藤紘一と直接ではないにしろ、接点があったことを知らなかった。二人がほんのわずかではあるにしろ、同時期に活躍した作家同士だったことも知らなかった。私の認識では、近藤の方がずっと上の世代だと思っていた。略年表によると、近藤は1940年生まれ、沢木は1947年生まれだから、二人に接点があってもおかしくないし、近藤は特派員兼作家だったし、沢木は当時、ニュージャーナリズムの旗手だったから、似通った土俵の上で活躍していた。だから、互いに意識しあう存在だったとしても不思議はない。
だが、本書によると、沢木が近藤の著作とその存在を本格的に意識し始めたのは、近藤の死後であったという。近藤がいまなお健在で、その間、沢木と親交を深めていたとしたら、いい意味で互いに刺激しあえた可能性が高いだけに、近藤の夭逝は誠に残念だ。
沢木は近藤をどう認識していたのか。本書によれば、沢木の近藤への関心は、近藤の最初の夫人の死に絞り込まれている。近藤の生き方(死に方)に最も強い影響を与えたのが最初の夫人の死だった、という意味のことを沢木は記している。そののちの近藤の寛容は、夫人を死に至らしめたのが自分であるという、強い自責の念と罪障からきているとも、沢木はいう。
私もその通りだと思うのだが、近藤の最初の結婚生活がどのようなものだったのかは、具体的にわかりにくい。近藤が夫人を「殺した」とまで自覚していた内容が、外部からわからない。夫人の病気の進行に対して、自分(近藤)が何もできなかった、という無力感なのか、夫人から発せられた(であろう)危険シグナルを自分(近藤)が見落としてしまった無念さなのか、あるいは、夫人を死に至らしめた、もっと強い何かを近藤がしてしまったのか・・・
私は、それが何だったかを知りたいわけではない。近藤の著作を読み終わると、人を殺してしまった、と自覚している人間が、その後の人生をどのように歩むのか、あるいは、歩むことができるのか、といった重い問が解けず残ったままであることに気づき苛立つ。
近藤は、何冊かの著作で、自分(近藤)と最初の夫人との生活や出来事について、断片的には触れても、具体的記述を避けている。読者は近藤の断片から、“何か”があったことをうかがいしるけれど、近藤が投げたボールを受け取った読者は、もっとはっきりと知りたいという思いで、ボールを近藤に投げ返したい、でも、近藤は他界して、彼からの返球を待つことができない・・・
沢木も、おそらく、そのような無念さを抱いて、近藤の遺作の編集作業に取り組んだのではないか。近藤のその後の生き方を読めば、回答があるという読み方もある。が、パリで夫人を亡くした近藤の内的ドラマと、南ベトナムに赴任して、ベトナム人の子連れ女性と再婚した後の「ホームドラマ」とは、比較したくても質が違いすぎる。沢木が近藤の最初の夫人の死にこだわるのは、再婚後の「ホームドラマ」が物質的であるがゆえに、精神的・内的ドラマの下位に位置づけられる、と考えるからではないだろう。沢木は、近藤が、内的ドラマを普遍化(作品化)する前に他界してしまったことに、口惜しさを感じ、作家・近藤紘一の未完性にこだわるからだとも筆者は推測したりする。
旅には、いろいろなあり方がある。若いときの一人旅、老夫婦の二人旅、恋人同士の甘い旅、さらには逃避行や武者修行といった、切羽詰った目的の旅もある。だから、沢木がここに記した旅の論は、旅全体の一部に該当する。年齢や境遇によって、旅の論は千差万別に至る。私は、だから、「夕陽が眼にしみる」についてあれこれ言う気にならない。
後者については、沢木が批評した作家、作品のほとんどを私が読んでいないので、これまた、論評を避けたい。ただ、中の例外の一編として、近藤紘一についてふれた論考(「彼の視線」)があった。
近藤は、唯一沢木と共有できる作家なので、それについて、思うところを以下に記してみたい。
私は、筆者(沢木耕太郎)が近藤紘一と直接ではないにしろ、接点があったことを知らなかった。二人がほんのわずかではあるにしろ、同時期に活躍した作家同士だったことも知らなかった。私の認識では、近藤の方がずっと上の世代だと思っていた。略年表によると、近藤は1940年生まれ、沢木は1947年生まれだから、二人に接点があってもおかしくないし、近藤は特派員兼作家だったし、沢木は当時、ニュージャーナリズムの旗手だったから、似通った土俵の上で活躍していた。だから、互いに意識しあう存在だったとしても不思議はない。
だが、本書によると、沢木が近藤の著作とその存在を本格的に意識し始めたのは、近藤の死後であったという。近藤がいまなお健在で、その間、沢木と親交を深めていたとしたら、いい意味で互いに刺激しあえた可能性が高いだけに、近藤の夭逝は誠に残念だ。
沢木は近藤をどう認識していたのか。本書によれば、沢木の近藤への関心は、近藤の最初の夫人の死に絞り込まれている。近藤の生き方(死に方)に最も強い影響を与えたのが最初の夫人の死だった、という意味のことを沢木は記している。そののちの近藤の寛容は、夫人を死に至らしめたのが自分であるという、強い自責の念と罪障からきているとも、沢木はいう。
私もその通りだと思うのだが、近藤の最初の結婚生活がどのようなものだったのかは、具体的にわかりにくい。近藤が夫人を「殺した」とまで自覚していた内容が、外部からわからない。夫人の病気の進行に対して、自分(近藤)が何もできなかった、という無力感なのか、夫人から発せられた(であろう)危険シグナルを自分(近藤)が見落としてしまった無念さなのか、あるいは、夫人を死に至らしめた、もっと強い何かを近藤がしてしまったのか・・・
私は、それが何だったかを知りたいわけではない。近藤の著作を読み終わると、人を殺してしまった、と自覚している人間が、その後の人生をどのように歩むのか、あるいは、歩むことができるのか、といった重い問が解けず残ったままであることに気づき苛立つ。
近藤は、何冊かの著作で、自分(近藤)と最初の夫人との生活や出来事について、断片的には触れても、具体的記述を避けている。読者は近藤の断片から、“何か”があったことをうかがいしるけれど、近藤が投げたボールを受け取った読者は、もっとはっきりと知りたいという思いで、ボールを近藤に投げ返したい、でも、近藤は他界して、彼からの返球を待つことができない・・・
沢木も、おそらく、そのような無念さを抱いて、近藤の遺作の編集作業に取り組んだのではないか。近藤のその後の生き方を読めば、回答があるという読み方もある。が、パリで夫人を亡くした近藤の内的ドラマと、南ベトナムに赴任して、ベトナム人の子連れ女性と再婚した後の「ホームドラマ」とは、比較したくても質が違いすぎる。沢木が近藤の最初の夫人の死にこだわるのは、再婚後の「ホームドラマ」が物質的であるがゆえに、精神的・内的ドラマの下位に位置づけられる、と考えるからではないだろう。沢木は、近藤が、内的ドラマを普遍化(作品化)する前に他界してしまったことに、口惜しさを感じ、作家・近藤紘一の未完性にこだわるからだとも筆者は推測したりする。
『永遠の吉本隆明』
●橋爪大三郎[著] ●洋泉社 ●720円+税
吉本隆明は、筆者が最も影響を受けた思想家の一人。吉本の本を読めば、元気になる――若いころの筆者の周りからは、そんな確信に満ちた声が聞こえたものだ。元気が出る思想家というのは、生涯においてなかなか出会わない存在だと思う。
著者(橋爪大三郎)もそのような思想家として吉本隆明を位置づけている。本書には、著者が吉本に寄せる尊敬と思慕が各所に見て取れる。
だが、筆者は本書に不満だ。著者は吉本の思想体系を、『擬制の終焉』→『共同幻想論』→『言語にとって美とはなにか』→『心的現象論』→サブカルチャー論全般→『反核異論』→その他の情況への諸発言→戦争論・・・と整理しているのだが、私は吉本隆明の思想の一貫性を示す著書は、『マチウ書試論』だと考えるからだ。著者が『マチウ書試論』に触れなかった理由がわからない。同書のキーワードは、橋爪が「あとがき」に記した“関係の絶対性”だと考えている。
直感的な批評、感覚的な批評の方法が日本の文学界をリードしていた時代と、その後のマルクス主義批評の盛衰を総括した吉本は、そのどちらにも与しない文芸批評の方法の構築に取り組んだ。吉本の構想を大雑把に言うならば、『言語にとって美とはなにか』とは、文芸批評の方法は結局のところ、言語に還元されなければ客観性が担保されない、という吉本のコンセプトから成立をみたものだと思う。
国家論、戦争論においても同様だ。『共同幻想論』では、国家の成立の根拠が意識に還元され、戦争の発生は国家に等しく、戦争の廃棄は国家の廃棄にあり、それ以外の「戦争論」はおよそ相対的であり、戦争と国家という客観(絶対)的な対応が欠落していると、吉本は考えているのだと思う。スターリン批判も同様だ。
さて、吉本の(信じる)客観(絶対)性によって還元された原子、すなわち、単位、すなわち、吉本の考えるところの「言語」「意識」「国家」が、はたして吉本が体系化したとおり、表象してるかどうかが難問なわけで、吉本の取組み姿勢は倫理的だが、書き終わった体系が正しいかどうかの判定は微妙なところだ。
故・村上一郎は、「矢が的に当たるかどうかは別として、弓を引く力は強い」と吉本隆明を評した。筆者;は村上のコメントこそが吉本隆明論の真髄だと思っている。吉本の弓を引く強さに魅了され、また、吉本が近くの的を正確に射抜く姿に驚きもしたのだが、遠い的に当たっているのかどうかを見届けていない。
著者(橋爪大三郎)もそのような思想家として吉本隆明を位置づけている。本書には、著者が吉本に寄せる尊敬と思慕が各所に見て取れる。
だが、筆者は本書に不満だ。著者は吉本の思想体系を、『擬制の終焉』→『共同幻想論』→『言語にとって美とはなにか』→『心的現象論』→サブカルチャー論全般→『反核異論』→その他の情況への諸発言→戦争論・・・と整理しているのだが、私は吉本隆明の思想の一貫性を示す著書は、『マチウ書試論』だと考えるからだ。著者が『マチウ書試論』に触れなかった理由がわからない。同書のキーワードは、橋爪が「あとがき」に記した“関係の絶対性”だと考えている。
直感的な批評、感覚的な批評の方法が日本の文学界をリードしていた時代と、その後のマルクス主義批評の盛衰を総括した吉本は、そのどちらにも与しない文芸批評の方法の構築に取り組んだ。吉本の構想を大雑把に言うならば、『言語にとって美とはなにか』とは、文芸批評の方法は結局のところ、言語に還元されなければ客観性が担保されない、という吉本のコンセプトから成立をみたものだと思う。
国家論、戦争論においても同様だ。『共同幻想論』では、国家の成立の根拠が意識に還元され、戦争の発生は国家に等しく、戦争の廃棄は国家の廃棄にあり、それ以外の「戦争論」はおよそ相対的であり、戦争と国家という客観(絶対)的な対応が欠落していると、吉本は考えているのだと思う。スターリン批判も同様だ。
さて、吉本の(信じる)客観(絶対)性によって還元された原子、すなわち、単位、すなわち、吉本の考えるところの「言語」「意識」「国家」が、はたして吉本が体系化したとおり、表象してるかどうかが難問なわけで、吉本の取組み姿勢は倫理的だが、書き終わった体系が正しいかどうかの判定は微妙なところだ。
故・村上一郎は、「矢が的に当たるかどうかは別として、弓を引く力は強い」と吉本隆明を評した。筆者;は村上のコメントこそが吉本隆明論の真髄だと思っている。吉本の弓を引く強さに魅了され、また、吉本が近くの的を正確に射抜く姿に驚きもしたのだが、遠い的に当たっているのかどうかを見届けていない。
2005年11月2日水曜日
『妻と娘の国へ行った特派員』
●近藤紘一[著] ●文春文庫 ●360円
近藤鉱一(1940~1986)は大手新聞社の特派員として、主に東南アジアを舞台に活躍した。彼はフランス(パリ)研修中、夫人を亡くしているのだが、研修後、その精神的痛手を抱えたまま、戦乱の南ベトナムに赴任した。赴任後、近藤は当地で子連れのベトナム人女性と再婚した。
ベトナム赴任中、近藤は北ベトナムによる「サイゴン解放」という歴史的瞬間に立ち会う。そのことを含め、近藤は戦時の南ベトナム、カンボジア、そして、その後の赴任先であるバンコク、家族が移住したパリについて、4冊の本(『サイゴンのいちばん長い日』『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』)を残した。それらの著作には、当地の政治家、軍人、民衆、ベトナム人である夫人の親戚、同業者(特派員)、特派員以外の外国人、さらに、自分の再婚の経緯、新しい家族と暮らしたベトナム、バンコク、日本等における生活が描かれている。
そればかりではない。4冊の中には、パリ研修時代、近藤が最初の夫人の死を自分の責任だと自覚し、強い自責の念にかられていたことが、フラッシュバックのように挿入されている。挿入された断片を読みつなぎ合わせると、最初の夫人が異国(フランス)の生活からくるプレッシャーにより、精神の病を患ったこと、さらに病魔が精神から身体をも蝕み、衰弱死に至らしめたこと、そして、近藤自身が、死に至る夫人を救済できなかった(と自覚している)こと、などがわかってくる。最初の夫人の死は、近藤のその後の精神形成に過重な負担を強いたようだ。
さて、本書は前述の4つの著作とは異なり、近藤の家族や自身については触れずに、特派員という職業、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールといった、東南アジア諸地域の風土について書かれている。本書から、1970~80年代の東南アジア各国の国情や生活実態などをうかがい知ることができる。
近藤は、自らを「東南アジア屋」と呼んで憚らない。その呼び方には、大手新聞社特派員のエリートコースが欧米勤務にあり、発展途上国勤務者が「落ちこぼれ」であることの自嘲が見て取れる、と同時に、20世紀後半の東南アジアが激動する歴史の表舞台であり、そこで命を賭けて取材を続けた自己の矜持を滲ませているように思う。だから、70~80年代の東南アジアの国情を背景として押さえておかなければ、本書を理解することが難しい。たとえば、カンボジアのポルポト政権が行った虐殺の史実を知らなければ、本書のその部分の記述は分かりにくいだろう。
筆者の感想としては、近藤の表現者としてのポジションの危うさが気になっている。近藤はカンボジアの悲劇について、ジャーナリスト特有の簡潔な記述に心がけているように思えるが、近藤のさらりとした記述は、ポルポトの恐怖政治の根源を問う思想性、厳しさに欠けるように思える。と同時に、近藤が詩人であるのならば、カンボジア人民の受難を取り込む感性に欠けるようにも思う。
近藤の表現者としてのポジションは「ジャーナリスト」なのか、それとも思想家、哲学者、詩人なのかを問わんとする問題設定は、存外、重要なことだ。それは近藤の創作活動が本書を境に、どちらの方向へ深化していくかにあった。もしかしたら、近藤のような人物は政治家やコメンテーターとして、(テレビで)活躍する可能性もあった。その回答を得る前に、45歳という若さで彼はガンに倒れてしまった。誠に遺憾というほかない。
近藤鉱一(1940~1986)は大手新聞社の特派員として、主に東南アジアを舞台に活躍した。彼はフランス(パリ)研修中、夫人を亡くしているのだが、研修後、その精神的痛手を抱えたまま、戦乱の南ベトナムに赴任した。赴任後、近藤は当地で子連れのベトナム人女性と再婚した。
ベトナム赴任中、近藤は北ベトナムによる「サイゴン解放」という歴史的瞬間に立ち会う。そのことを含め、近藤は戦時の南ベトナム、カンボジア、そして、その後の赴任先であるバンコク、家族が移住したパリについて、4冊の本(『サイゴンのいちばん長い日』『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』)を残した。それらの著作には、当地の政治家、軍人、民衆、ベトナム人である夫人の親戚、同業者(特派員)、特派員以外の外国人、さらに、自分の再婚の経緯、新しい家族と暮らしたベトナム、バンコク、日本等における生活が描かれている。
そればかりではない。4冊の中には、パリ研修時代、近藤が最初の夫人の死を自分の責任だと自覚し、強い自責の念にかられていたことが、フラッシュバックのように挿入されている。挿入された断片を読みつなぎ合わせると、最初の夫人が異国(フランス)の生活からくるプレッシャーにより、精神の病を患ったこと、さらに病魔が精神から身体をも蝕み、衰弱死に至らしめたこと、そして、近藤自身が、死に至る夫人を救済できなかった(と自覚している)こと、などがわかってくる。最初の夫人の死は、近藤のその後の精神形成に過重な負担を強いたようだ。
さて、本書は前述の4つの著作とは異なり、近藤の家族や自身については触れずに、特派員という職業、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールといった、東南アジア諸地域の風土について書かれている。本書から、1970~80年代の東南アジア各国の国情や生活実態などをうかがい知ることができる。
近藤は、自らを「東南アジア屋」と呼んで憚らない。その呼び方には、大手新聞社特派員のエリートコースが欧米勤務にあり、発展途上国勤務者が「落ちこぼれ」であることの自嘲が見て取れる、と同時に、20世紀後半の東南アジアが激動する歴史の表舞台であり、そこで命を賭けて取材を続けた自己の矜持を滲ませているように思う。だから、70~80年代の東南アジアの国情を背景として押さえておかなければ、本書を理解することが難しい。たとえば、カンボジアのポルポト政権が行った虐殺の史実を知らなければ、本書のその部分の記述は分かりにくいだろう。
筆者の感想としては、近藤の表現者としてのポジションの危うさが気になっている。近藤はカンボジアの悲劇について、ジャーナリスト特有の簡潔な記述に心がけているように思えるが、近藤のさらりとした記述は、ポルポトの恐怖政治の根源を問う思想性、厳しさに欠けるように思える。と同時に、近藤が詩人であるのならば、カンボジア人民の受難を取り込む感性に欠けるようにも思う。
近藤の表現者としてのポジションは「ジャーナリスト」なのか、それとも思想家、哲学者、詩人なのかを問わんとする問題設定は、存外、重要なことだ。それは近藤の創作活動が本書を境に、どちらの方向へ深化していくかにあった。もしかしたら、近藤のような人物は政治家やコメンテーターとして、(テレビで)活躍する可能性もあった。その回答を得る前に、45歳という若さで彼はガンに倒れてしまった。誠に遺憾というほかない。
2005年10月10日月曜日
『キリスト教図像学』
●マルセロ・パコ[著] ●文庫クセジュ ●951円+税
私がキリスト教に係る芸術に興味を覚えたのは、ロマネスク芸術への関心がきっかけだった。ロマネスク教会を特集した写真専門雑誌をみたときから、11世紀から12世紀にかけて西欧全体に広がったこの様式に魅かれた。私がこれまで考えていた西欧の芸術のイメージと大きく異なって見えたからだ。
2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに至る「巡礼の道」に沿ってロマネスク教会を巡る観光ツアーに参加した。この目で見たロマネスク芸術は、これまで抱いてきた西欧およびキリスト教芸術の先入観を払拭させた。と同時に、キリスト教芸術――たとえば、教会入口のタンパンに彫られた彫像、内部の絵画、回廊の柱頭等に描かれた装飾には、一定の決まりごとがあることを知った。たとえば、鳩は精霊の象徴であること、最後の審判においてキリストの左には悪者を、右には選ばれた善者を振り分けることなどが挙げられる。キリスト教芸術のセオリーを知ることは、キリスト教芸術をより深く理解できることにつながるに違いない、というのが、私が本書を読もうとした理由である。
本書にそのような説明もないわけではないが、本書の目指したのは、キリスト教芸術に反映されたテーマの推移を通じて、信仰のあり方の変遷を辿ることではないかと思う。キリスト教芸術において描かれたテーマは、時代時代によって異なっている。そのことは、人々がキリスト教に求めた対象の変遷を示しているといえる。
先述したとおり、私がロマネスク様式に関心を抱いたのは、ロマネスク様式(という限定された期間)におけるキリスト教図像(芸術)の中に、非西欧的諸要素を抽出したいという考えにとらわれた結果だった。一方、本書は、キリスト教の初期から宗教改革による偶像禁止に至るまでの期間――換言すれば、キリスト教が具体の表出に支えられてきた時代――の信仰の流れを図像学によって、示したものだ。であるから、範囲が広すぎて、やや物足りない面もなくはないのだが、キリスト教芸術の豊穣さを見直すには、本書は必読の解説書の1つであることは疑いようがない。
私がキリスト教に係る芸術に興味を覚えたのは、ロマネスク芸術への関心がきっかけだった。ロマネスク教会を特集した写真専門雑誌をみたときから、11世紀から12世紀にかけて西欧全体に広がったこの様式に魅かれた。私がこれまで考えていた西欧の芸術のイメージと大きく異なって見えたからだ。
2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに至る「巡礼の道」に沿ってロマネスク教会を巡る観光ツアーに参加した。この目で見たロマネスク芸術は、これまで抱いてきた西欧およびキリスト教芸術の先入観を払拭させた。と同時に、キリスト教芸術――たとえば、教会入口のタンパンに彫られた彫像、内部の絵画、回廊の柱頭等に描かれた装飾には、一定の決まりごとがあることを知った。たとえば、鳩は精霊の象徴であること、最後の審判においてキリストの左には悪者を、右には選ばれた善者を振り分けることなどが挙げられる。キリスト教芸術のセオリーを知ることは、キリスト教芸術をより深く理解できることにつながるに違いない、というのが、私が本書を読もうとした理由である。
本書にそのような説明もないわけではないが、本書の目指したのは、キリスト教芸術に反映されたテーマの推移を通じて、信仰のあり方の変遷を辿ることではないかと思う。キリスト教芸術において描かれたテーマは、時代時代によって異なっている。そのことは、人々がキリスト教に求めた対象の変遷を示しているといえる。
先述したとおり、私がロマネスク様式に関心を抱いたのは、ロマネスク様式(という限定された期間)におけるキリスト教図像(芸術)の中に、非西欧的諸要素を抽出したいという考えにとらわれた結果だった。一方、本書は、キリスト教の初期から宗教改革による偶像禁止に至るまでの期間――換言すれば、キリスト教が具体の表出に支えられてきた時代――の信仰の流れを図像学によって、示したものだ。であるから、範囲が広すぎて、やや物足りない面もなくはないのだが、キリスト教芸術の豊穣さを見直すには、本書は必読の解説書の1つであることは疑いようがない。
『アイルランド幻想』
●ピーター・トレメイン[著] ●光文社 ●705円+税
本書は11の物語の集成である。原題は “AISLING and Irish Tales of Terror”。AISLINGとはゲール語で幻影の意味。本書最後の物語のタイトルになっている。11の物語とも、アイルランドに伝わる伝説、古くからの言い伝え、神話、迷信、呪いなどを現代に置き換えて、ストーリーが展開される。別言すれば、本書はアイルランド奇譚集ともいえる。
たとえば第1話『石柱』は、盲目の音楽家の殺害を企てる妻とその愛人が、逆に、屋敷の庭に立つ古代の石柱に閉じ込められてしまう話。また、本題にも冠せられている11番目の『幻影(AISLING)』は、アイルランドの孤島に赴任した若き司祭が、島の自由奔放な女性に魅せられ、禁を犯してしまう話。若き司祭は自ら命を絶つのだが、生前、その島でやはり、自ら命を絶った先代の司祭の自殺のシーンが予告のように幻影となって現れる。
アイルランドが英国の植民地から独立を勝ち取ろうとしたとき、国家・民族のアイデンティティーとして「ケルト」を選び取ったことは『妖精のアイルランド』に書いた。『妖精のアイルランド』は、アイルランドの言説のネットワークとして、“チェンジリング”だけを取り上げているのだが、本書は、アイルランド各地の伝承、神話、迷信を集成している。海や島に住む悪魔、村や屋敷や教会を舞台にした、復讐、怨念、ティンカーの呪い(のろい・まじない)など幅広い。本書を通じて、アイルランドの農漁村に伝わる古い言い伝えをくまなく体験できる。とくにクロムウエル時代の圧政により、多数のアイルラン人が命を落とした「飢饉の時代」を舞台にした支配者英国人への復讐のホラーは、凄みがある。
物語のパターンとしては、因果応報に近い。堕落、裏切り、圧政といった悪事が、古代の神や被害者たちの呪いによって、報いを受ける。だからといって、説教臭い「道徳・倫理」の押し付けではない。
人間が悪に傾くことは避けようがない。自然すなわち情念に動かされてしまうからだろうか。だが、そのまま悪が放置され許されるわけではない。犯した罪はやがて、土着の超越的力により、裁かれることになる。裁きは、キリスト教(唯一神)のものとは異なり、はてしなく強大な超自然の力によってもたらされたり、小さく弱き者の強い呪いによって、罪を犯した者にやってくる。それらを迷信や幻想といって退けるか、伝統的(土着的)裁きの方法として受け入れ、教訓や道徳の基盤として人々の心に刻むかではないか。
人を律するのは、唯一神だけとは限らない。アイルランドはカトリックの国でありながら、カトリック信仰だけの国ではないようだ。21世紀、アイルランド本国でも、古代の伝承は迷信として退けられているのだろうが、それらを自らのアイデンティティーとして、つまり、精神、社会規範のあり方の1つとして、保存する力がいまのアイルランドにあるに違いない。その力が、本書のような形式の幻想文学を生んだのではないか。
後書きの解説によると、著者ピーター・トレメインは、またの名(本名)をピーター・べレスフォード・エリスといい、著名なケルト学者とのこと。小説はピーター・トレメインの名で書き、ケルト研究の書については、ピーター・べレスフォード・エリスの名で発表するという。本書を通じて、アイルランドの神話、伝説を勉強することができる。ケルト好きな方(ケルトマニア)に、ぜひの一読をおすすめする。
本書は11の物語の集成である。原題は “AISLING and Irish Tales of Terror”。AISLINGとはゲール語で幻影の意味。本書最後の物語のタイトルになっている。11の物語とも、アイルランドに伝わる伝説、古くからの言い伝え、神話、迷信、呪いなどを現代に置き換えて、ストーリーが展開される。別言すれば、本書はアイルランド奇譚集ともいえる。
たとえば第1話『石柱』は、盲目の音楽家の殺害を企てる妻とその愛人が、逆に、屋敷の庭に立つ古代の石柱に閉じ込められてしまう話。また、本題にも冠せられている11番目の『幻影(AISLING)』は、アイルランドの孤島に赴任した若き司祭が、島の自由奔放な女性に魅せられ、禁を犯してしまう話。若き司祭は自ら命を絶つのだが、生前、その島でやはり、自ら命を絶った先代の司祭の自殺のシーンが予告のように幻影となって現れる。
アイルランドが英国の植民地から独立を勝ち取ろうとしたとき、国家・民族のアイデンティティーとして「ケルト」を選び取ったことは『妖精のアイルランド』に書いた。『妖精のアイルランド』は、アイルランドの言説のネットワークとして、“チェンジリング”だけを取り上げているのだが、本書は、アイルランド各地の伝承、神話、迷信を集成している。海や島に住む悪魔、村や屋敷や教会を舞台にした、復讐、怨念、ティンカーの呪い(のろい・まじない)など幅広い。本書を通じて、アイルランドの農漁村に伝わる古い言い伝えをくまなく体験できる。とくにクロムウエル時代の圧政により、多数のアイルラン人が命を落とした「飢饉の時代」を舞台にした支配者英国人への復讐のホラーは、凄みがある。
物語のパターンとしては、因果応報に近い。堕落、裏切り、圧政といった悪事が、古代の神や被害者たちの呪いによって、報いを受ける。だからといって、説教臭い「道徳・倫理」の押し付けではない。
人間が悪に傾くことは避けようがない。自然すなわち情念に動かされてしまうからだろうか。だが、そのまま悪が放置され許されるわけではない。犯した罪はやがて、土着の超越的力により、裁かれることになる。裁きは、キリスト教(唯一神)のものとは異なり、はてしなく強大な超自然の力によってもたらされたり、小さく弱き者の強い呪いによって、罪を犯した者にやってくる。それらを迷信や幻想といって退けるか、伝統的(土着的)裁きの方法として受け入れ、教訓や道徳の基盤として人々の心に刻むかではないか。
人を律するのは、唯一神だけとは限らない。アイルランドはカトリックの国でありながら、カトリック信仰だけの国ではないようだ。21世紀、アイルランド本国でも、古代の伝承は迷信として退けられているのだろうが、それらを自らのアイデンティティーとして、つまり、精神、社会規範のあり方の1つとして、保存する力がいまのアイルランドにあるに違いない。その力が、本書のような形式の幻想文学を生んだのではないか。
後書きの解説によると、著者ピーター・トレメインは、またの名(本名)をピーター・べレスフォード・エリスといい、著名なケルト学者とのこと。小説はピーター・トレメインの名で書き、ケルト研究の書については、ピーター・べレスフォード・エリスの名で発表するという。本書を通じて、アイルランドの神話、伝説を勉強することができる。ケルト好きな方(ケルトマニア)に、ぜひの一読をおすすめする。
2005年10月3日月曜日
『下流社会』
●三浦 展 [著] ●光文社 ●819円(税込)
日本は江戸時代(19世紀後半)まで強固な身分制社会であった。日本社会が「士農工商」と呼ばれた職業別に階層化されていたことはよく、知られている。1868年の明治維新は、旧来の身分制社会を解消したが、近代化が旧社会からの身分制度の残滓に加えて、富による社会の階層化を促進した。その結果、新たな、しかも、複雑な階層社会が日本に形成されることになった。明治期に形成された日本型階層社会は、戦後の高度成長期前まで続いた。
明治期の東京の最下層社会の実相については、『最暗黒の東京』(松原岩五郎著)、『日本の下層社会』(横山源之助著)などによりうかがい知ることができる。また、明治から終戦までの日本の下層社会については、『日本の下層社会』(紀田順一郎著)に詳しい。
終戦後、政治的変革と経済復興に伴い、とりわけ、1960年代中葉から開始された高度成長期、日本社会に大量の中間層が形成され、また同時に、福祉政策の充実に伴い、いわゆる「食うに困る」貧困層の存在は解消され今日に至っている。(もちろん、大都市におけるホームレス問題は解消されていないが)。だからといって、戦後高度成長期以降の中間層の肥大化が、戦後社会における日本の階層社会の不在を意味しない。その理由等は後述する。
明治から戦前までの日本社会においては、旧体制支配者(華族)、明治政府と直結したブルジョアジー(政商、後に財閥に成長)、それとは別に新たに形成された新興ブルジョアジーらが階層上位を独占した。その下位に官僚、大企業勤務者(ホワイトカラー)らが続き、町場の零細商人、単純肉体労働者、職人等々が下層を形成した。だから、大都市の下町と呼ばれる地域等の町内会の役員の座は、地元の商工業者で占められていて、サラリーマン層はそこに入り込むことができない。戦前、サラリーマンは月々の給与(サラリー)がきちんと確保された特権階級だったのだ。だから、いまだに町場の商工業者はサラリーマンと価値観を共有することができない。なお、最下層は定職をもたないルンペンプロレタリアートで、彼らの大多数は被差別者や農村部から職を求めて大都市にやってきた流民層だった。
明治から終戦まで、部分的な階層流動化や脱階層化があったものの、大雑把な階層構造は戦後の高度成長期まで残存した。
戦後、先述したように高度成長により、下層及び最下層が中間層に上昇したものの、階層の上位に変化はなかった。もちろん、ミクロにみれば旧華族や新興ブルジョアジーの没落や財閥解体があったけれど、戦後社会に明治以降の階層社会の基本構造が持ち越されたことに変わりなかった。ただ、戦後の高度成長期以降は、おおよその日本人が階層の差異に無自覚でいられた社会だった。なぜなら、日本社会において中間層が肥大化した高度成長期(1960年初)からバブル崩壊期(2000年)までの40年間は、国民の大多数が階層の下降よりも上昇を経験した例外的な時代だったからだ。社会階層が厳然と存在していたにも関わらず、だれもがその存在に無自覚でいられた「幸福な時代」だったとも換言できる。
さて、本書にもどろう。いま階層分化が劇的に進行しているとよく、言われている。フリーターや派遣社員と呼ばれる非正規社員の増大などの雇用環境が変化する一方で、IT産業における若手経営者の成功により、若年ニューリッチ層が台頭し、若年層の所得格差に激しい変化が起きている、と各方面で指摘されている。
結論を言えば、そのような変化が実際に起きていて、それに伴い、若年層における価値観の変化が並行して認められる。著者は新たに形成された若年層の価値観、年間所得などを総合して、「下流」と呼ぶが、下流は「食うに困る」かつての下層、貧困層とは異なっている。
自分以外の人間が何を考えているのかはわかりにくい。まして、階層だとかグループだとかクラスターと言われると、そんなものが実際に存在するのかな、とも思ってしまう。しかも、若年層に見られる新しい価値観が、経済格差の反映なのか、それとも、原因なのかを断ずる困難さを筆者は感じている。
人間の価値観を定量的に調査し分類する(本書のような)専門的手法は、筆者には、魔法のように映る。親の職業やら学歴やら、消費の実態から価値観までがみごとなまでに整理され、そこから炙り出された結論は、日本社会の新たな分化の実態である。階層分化が織り成す模様は、中間層の二極化であり、とりわけ、30歳前後の若者(団塊ジュニア)の二極分化だ。「勝ち組」と「負け組」とが急速に分化し、それぞれの価値観にそった消費傾向、意識形成が認められるというわけだ。
キーワードは、「自分らしく生きる」ということではないか。マルクスは、資本主義社会では疎外された労働を余儀なくされるが、共産主義社会では人々は疎外された労働から解放され、その結果、労働者の才能は無限に解放開花し、人々は労働者であるとともに、偉大な芸術家であることができる――というような意味のことを『ドイツイデオロギー』に書いた。
資本主義社会において、若者が「疎外された労働」に従事することを自覚的に拒否するのか、それとも、労働により富を得、権力を握ることを自覚的に「よし」とするかだ。問題は、労働一般に対する日本人のエートスに関わっている。具体的にはこういうことだ。企業に正規採用されれば、たとえば、本人が希望しない営業職に配属され人に頭を下げなければならなくなるかもしれない。自分はパソコンが得意だからといって、その分野に配属されるとは限らない。ならば、自分の好きなパソコンのスキルを生かして、派遣社員で生きていこう、と考えるのは不思議なことでもなんでもない。企業に入っても終身雇用ではない。ある時点で、会社にクビを切られるかもしれない・・・そのように考えることは自然だ。
団塊前後の世代は、働き場所はいくらでもあったから、自分探し、たとえば、「革命幻想」や「芸術家」や「文学青年」「映画青年」・・・の夢がついえても、最後は企業が拾ってくれた。終身雇用制度に守られ、よほどの怠慢がない限り、会社からクビを切られる確率は低かった。入口はたっぷり開かれていて、出口はきっちり閉められていた。もちろん、閉ざされた企業の中で、「社会人」として我慢を強いられていたとは言え・・・それが、中流の実態かもしれない。ところがいまや、入口は狭く、実力主義とかで出口は限りなく広い。若年労働者が企業に正規(法的)に雇用されなくなったのだ。
本書が見出した“新たな階層集団=下流社会指向”について、マルクスの表現を借りるならば、本人の自覚は別として、彼らの選択した雇用形態が資本主義社会における“疎外された労働”を止揚しているとは今の段階では、もちろん言えない。ばかりか、結果的には “搾取された存在”として、 社会の下層に固定され続けることになる。
いま現在の労働フォームに適応できない若者がいることは仕方がない。すべての人間に階段を昇ることを強制できない。望んで下り階段を選択する者をだれもとめることはできない。ただし、そう断言するには注釈が必要だと思う、下り階段を自覚的に選択するならば・・・と。
明治期の東京の最下層社会の実相については、『最暗黒の東京』(松原岩五郎著)、『日本の下層社会』(横山源之助著)などによりうかがい知ることができる。また、明治から終戦までの日本の下層社会については、『日本の下層社会』(紀田順一郎著)に詳しい。
終戦後、政治的変革と経済復興に伴い、とりわけ、1960年代中葉から開始された高度成長期、日本社会に大量の中間層が形成され、また同時に、福祉政策の充実に伴い、いわゆる「食うに困る」貧困層の存在は解消され今日に至っている。(もちろん、大都市におけるホームレス問題は解消されていないが)。だからといって、戦後高度成長期以降の中間層の肥大化が、戦後社会における日本の階層社会の不在を意味しない。その理由等は後述する。
明治から戦前までの日本社会においては、旧体制支配者(華族)、明治政府と直結したブルジョアジー(政商、後に財閥に成長)、それとは別に新たに形成された新興ブルジョアジーらが階層上位を独占した。その下位に官僚、大企業勤務者(ホワイトカラー)らが続き、町場の零細商人、単純肉体労働者、職人等々が下層を形成した。だから、大都市の下町と呼ばれる地域等の町内会の役員の座は、地元の商工業者で占められていて、サラリーマン層はそこに入り込むことができない。戦前、サラリーマンは月々の給与(サラリー)がきちんと確保された特権階級だったのだ。だから、いまだに町場の商工業者はサラリーマンと価値観を共有することができない。なお、最下層は定職をもたないルンペンプロレタリアートで、彼らの大多数は被差別者や農村部から職を求めて大都市にやってきた流民層だった。
明治から終戦まで、部分的な階層流動化や脱階層化があったものの、大雑把な階層構造は戦後の高度成長期まで残存した。
戦後、先述したように高度成長により、下層及び最下層が中間層に上昇したものの、階層の上位に変化はなかった。もちろん、ミクロにみれば旧華族や新興ブルジョアジーの没落や財閥解体があったけれど、戦後社会に明治以降の階層社会の基本構造が持ち越されたことに変わりなかった。ただ、戦後の高度成長期以降は、おおよその日本人が階層の差異に無自覚でいられた社会だった。なぜなら、日本社会において中間層が肥大化した高度成長期(1960年初)からバブル崩壊期(2000年)までの40年間は、国民の大多数が階層の下降よりも上昇を経験した例外的な時代だったからだ。社会階層が厳然と存在していたにも関わらず、だれもがその存在に無自覚でいられた「幸福な時代」だったとも換言できる。
さて、本書にもどろう。いま階層分化が劇的に進行しているとよく、言われている。フリーターや派遣社員と呼ばれる非正規社員の増大などの雇用環境が変化する一方で、IT産業における若手経営者の成功により、若年ニューリッチ層が台頭し、若年層の所得格差に激しい変化が起きている、と各方面で指摘されている。
結論を言えば、そのような変化が実際に起きていて、それに伴い、若年層における価値観の変化が並行して認められる。著者は新たに形成された若年層の価値観、年間所得などを総合して、「下流」と呼ぶが、下流は「食うに困る」かつての下層、貧困層とは異なっている。
自分以外の人間が何を考えているのかはわかりにくい。まして、階層だとかグループだとかクラスターと言われると、そんなものが実際に存在するのかな、とも思ってしまう。しかも、若年層に見られる新しい価値観が、経済格差の反映なのか、それとも、原因なのかを断ずる困難さを筆者は感じている。
たとえば、従来まで中間層に自動的に組み入れられたはずの若年層が、自らの価値観にしたがって、敢えて下層=「負け組」を選択しているのではないか。それとも、現在の社会システムの変化が、彼らを下層に振り分けているのか――という問いだ。
人間の価値観を定量的に調査し分類する(本書のような)専門的手法は、筆者には、魔法のように映る。親の職業やら学歴やら、消費の実態から価値観までがみごとなまでに整理され、そこから炙り出された結論は、日本社会の新たな分化の実態である。階層分化が織り成す模様は、中間層の二極化であり、とりわけ、30歳前後の若者(団塊ジュニア)の二極分化だ。「勝ち組」と「負け組」とが急速に分化し、それぞれの価値観にそった消費傾向、意識形成が認められるというわけだ。
高学歴の親をもった子供は高学歴になり、したがって、上層の親の子供は必然的に上層に振り分けられる。そのような社会システムが知らず知らずに稼動して、階層は固定化されていくのだろうか。
キーワードは、「自分らしく生きる」ということではないか。マルクスは、資本主義社会では疎外された労働を余儀なくされるが、共産主義社会では人々は疎外された労働から解放され、その結果、労働者の才能は無限に解放開花し、人々は労働者であるとともに、偉大な芸術家であることができる――というような意味のことを『ドイツイデオロギー』に書いた。
資本主義社会において、若者が「疎外された労働」に従事することを自覚的に拒否するのか、それとも、労働により富を得、権力を握ることを自覚的に「よし」とするかだ。問題は、労働一般に対する日本人のエートスに関わっている。具体的にはこういうことだ。企業に正規採用されれば、たとえば、本人が希望しない営業職に配属され人に頭を下げなければならなくなるかもしれない。自分はパソコンが得意だからといって、その分野に配属されるとは限らない。ならば、自分の好きなパソコンのスキルを生かして、派遣社員で生きていこう、と考えるのは不思議なことでもなんでもない。企業に入っても終身雇用ではない。ある時点で、会社にクビを切られるかもしれない・・・そのように考えることは自然だ。
一方で、「自分探し」が永続しているのかもしれない。本人の才能について、本人が客観的な判断がくだせないまま、理想の仕事を追い求めて、定職につかない若者が増大することもあり得る。その結果、若者のニート、フリーターが増大しているのかもしれない。
団塊前後の世代は、働き場所はいくらでもあったから、自分探し、たとえば、「革命幻想」や「芸術家」や「文学青年」「映画青年」・・・の夢がついえても、最後は企業が拾ってくれた。終身雇用制度に守られ、よほどの怠慢がない限り、会社からクビを切られる確率は低かった。入口はたっぷり開かれていて、出口はきっちり閉められていた。もちろん、閉ざされた企業の中で、「社会人」として我慢を強いられていたとは言え・・・それが、中流の実態かもしれない。ところがいまや、入口は狭く、実力主義とかで出口は限りなく広い。若年労働者が企業に正規(法的)に雇用されなくなったのだ。
本書が見出した“新たな階層集団=下流社会指向”について、マルクスの表現を借りるならば、本人の自覚は別として、彼らの選択した雇用形態が資本主義社会における“疎外された労働”を止揚しているとは今の段階では、もちろん言えない。ばかりか、結果的には “搾取された存在”として、 社会の下層に固定され続けることになる。
いま現在の労働フォームに適応できない若者がいることは仕方がない。すべての人間に階段を昇ることを強制できない。望んで下り階段を選択する者をだれもとめることはできない。ただし、そう断言するには注釈が必要だと思う、下り階段を自覚的に選択するならば・・・と。
2005年9月29日木曜日
『東京奇譚集』
●村上春樹[著] ●新潮社 ●1400円(税別)
本書は5つの小話が集められた短編集。それぞれの小話で、超常現象(Paranormal
Phenomena)が扱われている。筆者は超常現象の専門家でないので、正確なことはわからないのだが、乏しい知識で小話集を分類すると、第一話がシンクロ二シティ(Synchronicity)、第二話=幻覚/幽霊(ハルシネイション/Hallucination))、第三話=テレポーテーション(Teleportation)、第四話=疑似科学(Pseudoscience)――になると思う。そして、最後の第五話で、この短編集が超常現象に踊る現代人を戯画化(Caricature)したことが明らかにされ、もちろん、この短編集の核心が超常現象でないことが確認される。
いま超常現象は、エンターテインメントの有力なコンテンツとして定着している。テレビをつければ、世界のシックスセンサーが何人も登場し、透視能力者による透視実験や失踪者探しが見られる。普通人とは異なる特殊能力をもった人間がいることは、周知の事実となっている。
稀代の流行作家・村上春樹(著者)がテレビ番組並み、いや、それよりもはるかに低いレベルの超常現象を書き上げた意図は――もちろん、読者を驚かそうとしたわけでない。本書程度の超常現象ではだれも驚かない。〈奇譚〉と振りかぶるのは大げさすぎる。
著者が超常現象にまつわる登場人物に関して、人生訓、人生の機微、その有為転変を付加したとも読めるが、陳腐だ。人生(人間)が常識や科学で推し量れない驚きに満ち溢れていることを説かれても、感心する読書は少なかろう。
著者が現代の都市におけるFantasy(幻想)のあり方を示した、という解釈は可能だ。第五話「品川猿」が重要だと思う。この小話は、自分の名前を忘れてしまいがちな主人公(既婚女性)が、品川区公設の精神カウンセリングに通うところから展開する。自分の名前を忘れるのは、超常現象の1つ「記憶喪失」を連想させる。カウンセリングに通ううちに、担当の女性カウンセラーが記憶喪失の犯人が猿であることをつきとめ、しかも、その猿が区内の下水道に隠れていることを透視する。これは透視能力者がよく、テレビで実演する透視シーンの戯画だ。
カウンセラーの夫(品川区土木課長)によって猿は捕獲され、尋問を受けることになる。そのとき、捕らえられた猿が主人公の性格的欠損を主人公に向かって、直言するシーンが出てくる。これは、転倒しているが、霊能者がテレビで依頼者に向かって、改心や今後の心構えを諭すシーンの戯画のように思える。
記憶喪失の原因は猿が名前(実際は名札)を盗んだから、という荒唐無稽な話だが、タネを明かせば、ヨーロッパの寓話(Allegory)によくあるパターンだ。村上氏は、第五話の寓話を用いて、超常現象ブームを揶揄し、そのすべてをひっくり返してみせる。と、同時に、絶望や不幸をもたらす原因を、妖怪や悪霊といった「あちら側の者」に表象して特定してみせ、さらに、「あちら側の者」から救済や功徳を受けることを明かしてみせる。
このような脈絡から、第五話「品川猿(記憶を盗む猿)」とは、アイルランドに伝承される妖精に似ているといえる。妖精も人間に対して、いろいろな悪さを仕掛ける。たとえば、人間を動物や石に替えたり、人の魂や記憶を盗んだり、人の魂と動物の魂を入れ替えたりする。その反対に、妖精は人間に教訓を与えたり、命を助けたり、富を与えることもある。第五話では、前述したように、猿が主人公の性格上の欠損を指摘して、主人公の生き方を変える役割を果たしている。
妖精といえばちょうど、『妖精のアイルランド』という新書を読んだばかりだ。同書には、妖精の果たす役割(換言すれば、妖精を生み出したアイルランド人の知恵)が言及されている。興味のある方は一読されたらいいと思う。妖精とは、共同体の安寧を維持するための、両義性をもった幻想的存在にほかならない。
いま超常現象は、エンターテインメントの有力なコンテンツとして定着している。テレビをつければ、世界のシックスセンサーが何人も登場し、透視能力者による透視実験や失踪者探しが見られる。普通人とは異なる特殊能力をもった人間がいることは、周知の事実となっている。
稀代の流行作家・村上春樹(著者)がテレビ番組並み、いや、それよりもはるかに低いレベルの超常現象を書き上げた意図は――もちろん、読者を驚かそうとしたわけでない。本書程度の超常現象ではだれも驚かない。〈奇譚〉と振りかぶるのは大げさすぎる。
著者が超常現象にまつわる登場人物に関して、人生訓、人生の機微、その有為転変を付加したとも読めるが、陳腐だ。人生(人間)が常識や科学で推し量れない驚きに満ち溢れていることを説かれても、感心する読書は少なかろう。
著者が現代の都市におけるFantasy(幻想)のあり方を示した、という解釈は可能だ。第五話「品川猿」が重要だと思う。この小話は、自分の名前を忘れてしまいがちな主人公(既婚女性)が、品川区公設の精神カウンセリングに通うところから展開する。自分の名前を忘れるのは、超常現象の1つ「記憶喪失」を連想させる。カウンセリングに通ううちに、担当の女性カウンセラーが記憶喪失の犯人が猿であることをつきとめ、しかも、その猿が区内の下水道に隠れていることを透視する。これは透視能力者がよく、テレビで実演する透視シーンの戯画だ。
カウンセラーの夫(品川区土木課長)によって猿は捕獲され、尋問を受けることになる。そのとき、捕らえられた猿が主人公の性格的欠損を主人公に向かって、直言するシーンが出てくる。これは、転倒しているが、霊能者がテレビで依頼者に向かって、改心や今後の心構えを諭すシーンの戯画のように思える。
記憶喪失の原因は猿が名前(実際は名札)を盗んだから、という荒唐無稽な話だが、タネを明かせば、ヨーロッパの寓話(Allegory)によくあるパターンだ。村上氏は、第五話の寓話を用いて、超常現象ブームを揶揄し、そのすべてをひっくり返してみせる。と、同時に、絶望や不幸をもたらす原因を、妖怪や悪霊といった「あちら側の者」に表象して特定してみせ、さらに、「あちら側の者」から救済や功徳を受けることを明かしてみせる。
このような脈絡から、第五話「品川猿(記憶を盗む猿)」とは、アイルランドに伝承される妖精に似ているといえる。妖精も人間に対して、いろいろな悪さを仕掛ける。たとえば、人間を動物や石に替えたり、人の魂や記憶を盗んだり、人の魂と動物の魂を入れ替えたりする。その反対に、妖精は人間に教訓を与えたり、命を助けたり、富を与えることもある。第五話では、前述したように、猿が主人公の性格上の欠損を指摘して、主人公の生き方を変える役割を果たしている。
妖精といえばちょうど、『妖精のアイルランド』という新書を読んだばかりだ。同書には、妖精の果たす役割(換言すれば、妖精を生み出したアイルランド人の知恵)が言及されている。興味のある方は一読されたらいいと思う。妖精とは、共同体の安寧を維持するための、両義性をもった幻想的存在にほかならない。
2005年9月26日月曜日
『妖精のアイルランド』
●下楠昌哉[著] ●平凡社 ●760円(税別)
19世紀、英国からの独立を目指したアイルランドでは、文芸復興及び民俗学が隆盛を極めた。この2つの領域は互いに影響を与えつつ、両輪としてアイルランド人自らのアイデンティティの確立=ケルト民族意識を育んだ。
その片一方である民俗学は、近代化の遅れたアイルランド農村部に言い伝えられている伝承物語の採集から始まった。採集された伝承物語により、アイルランドにおける物語の主役が妖精であることをアイルランド人は知ることになる。アイルランドがいまなお、妖精の国といわれる所以がここにある。
本書は、妖精の人間界に果たす役割から、アイルランド文学に認められる一定の構造を明らかにする。妖精が果たす役割とは、著者によって「アイルランドの言説のネットワーク」と呼ばれるもので、大雑把に言うと、妖精が生きた人間の魂をこの世からあの世に移行させてしまう状況もしくは現象をいう。
妖精の霊力がもっとも顕著に現れると信じられているのが、「取り替えっ子(チェンジリング)」だ。「取り替えっ子」とは、赤ん坊、幼児、あるいは妊婦といった境界領域にある人間の内面に妖精が侵入し、侵入と同時に、本来備わっていた魂をあの世に代わりに送ってしまうことをいう。魂を送られた幼児や妊婦は老婆の姿に変身したり、昏睡状態、仮死状態に陥る場合もあるし、異界からやってきた超人に変身することもある。
もっとも、本来、肉体に同居すべき魂がなんらかの契機で離脱し、残された肉体が仮死状態に陥ったり、あるいは、その代わりとして、獣の霊や悪霊が入り込む(憑依)といった言い伝えは、アイルランドに特有というわけではない、わが沖縄にも、また、アジア各地、南太平洋島嶼部にもある。たまたまアイルランドが欧州の「後進国」であったため、妖精伝説が他の欧州諸国より豊富だったに過ぎない。
さて、著者は本書を通じて、19世紀アイルランド文芸及び民俗学の大御所、イェイツ、ダグラス・ハイド(民俗学者)、プラム・ストーカー(ドラキュラの作者)、オスカー・ワイルド、ラフカディオ・ハーン、ジェームス・ジョイスの作品の基本構造に「取り替えっ子」が発見できることを実証していく。とりわけ、『ドラキュラ』に関する作品分析はみごとであり、なるほどと感心させられる部分が多い。
繰り返して言えば、アイルランド人は、支配者・英国に対する独立の根拠として、「ケルト」という民族概念を発見し、それを強く自覚した。そして、ケルト民族の独自性の実証手段として民俗学を発展させた。民俗学のフィールドワークにより、妖精の存在を発見し、妖精が人間に仕掛ける悪さ、すなわち、「取り替えっ子」により、人間が不可避的に受ける災禍の納得できる説明として用いてきた古代人の知恵を知った。自分達の祖先は、絶望を受け入れるために、妖精の存在を敢えて信じた――ことを学んだ。
19世紀当時、偉大な作家達は――愛国心に燃えたかそれに無関心であっかを問わず――、人間社会が体験する不条理性・悲劇性を文学化する際に「取り替えっ子」を基層として、物語を展開した。自覚的だったかどうかは分からない。いずれにしても、アイルランド人もしくはアイルランド系英国人が19世紀に残した文学作品の中には、アイルランドの農村に息づく妖精の影がちらついている。妖精が偉大な文学作品をこしらえたのかもしれない。
その片一方である民俗学は、近代化の遅れたアイルランド農村部に言い伝えられている伝承物語の採集から始まった。採集された伝承物語により、アイルランドにおける物語の主役が妖精であることをアイルランド人は知ることになる。アイルランドがいまなお、妖精の国といわれる所以がここにある。
本書は、妖精の人間界に果たす役割から、アイルランド文学に認められる一定の構造を明らかにする。妖精が果たす役割とは、著者によって「アイルランドの言説のネットワーク」と呼ばれるもので、大雑把に言うと、妖精が生きた人間の魂をこの世からあの世に移行させてしまう状況もしくは現象をいう。
妖精の霊力がもっとも顕著に現れると信じられているのが、「取り替えっ子(チェンジリング)」だ。「取り替えっ子」とは、赤ん坊、幼児、あるいは妊婦といった境界領域にある人間の内面に妖精が侵入し、侵入と同時に、本来備わっていた魂をあの世に代わりに送ってしまうことをいう。魂を送られた幼児や妊婦は老婆の姿に変身したり、昏睡状態、仮死状態に陥る場合もあるし、異界からやってきた超人に変身することもある。
もっとも、本来、肉体に同居すべき魂がなんらかの契機で離脱し、残された肉体が仮死状態に陥ったり、あるいは、その代わりとして、獣の霊や悪霊が入り込む(憑依)といった言い伝えは、アイルランドに特有というわけではない、わが沖縄にも、また、アジア各地、南太平洋島嶼部にもある。たまたまアイルランドが欧州の「後進国」であったため、妖精伝説が他の欧州諸国より豊富だったに過ぎない。
さて、著者は本書を通じて、19世紀アイルランド文芸及び民俗学の大御所、イェイツ、ダグラス・ハイド(民俗学者)、プラム・ストーカー(ドラキュラの作者)、オスカー・ワイルド、ラフカディオ・ハーン、ジェームス・ジョイスの作品の基本構造に「取り替えっ子」が発見できることを実証していく。とりわけ、『ドラキュラ』に関する作品分析はみごとであり、なるほどと感心させられる部分が多い。
繰り返して言えば、アイルランド人は、支配者・英国に対する独立の根拠として、「ケルト」という民族概念を発見し、それを強く自覚した。そして、ケルト民族の独自性の実証手段として民俗学を発展させた。民俗学のフィールドワークにより、妖精の存在を発見し、妖精が人間に仕掛ける悪さ、すなわち、「取り替えっ子」により、人間が不可避的に受ける災禍の納得できる説明として用いてきた古代人の知恵を知った。自分達の祖先は、絶望を受け入れるために、妖精の存在を敢えて信じた――ことを学んだ。
19世紀当時、偉大な作家達は――愛国心に燃えたかそれに無関心であっかを問わず――、人間社会が体験する不条理性・悲劇性を文学化する際に「取り替えっ子」を基層として、物語を展開した。自覚的だったかどうかは分からない。いずれにしても、アイルランド人もしくはアイルランド系英国人が19世紀に残した文学作品の中には、アイルランドの農村に息づく妖精の影がちらついている。妖精が偉大な文学作品をこしらえたのかもしれない。
2005年9月20日火曜日
『グノーシス』
●筒井賢治[著] ●講談社●1500円(税別)
グノーシス(派)主義は、2世紀、現在のパレスチナの地に成立したキリスト教の一派。2世紀ごろはキリスト教が東西に波及し出した時代であり、この一派は多数派教会(カトリック)とは異なる独特の解釈を確立していた。このころのローマ帝国は、成立以来、最安定期の時代だった。
グノーシスを直訳すれば「認識」となる。
グノーシスを直訳すれば「認識」となる。
グノーシス主義の中心地は、現在のエジプトのアレクサンドリアだった。当地は、アレクサンダー大王が世界最大の帝国(マケドニア)を築いたとき文化の中心地として建都し、自らの名を付した。アレクサンドリアでは、ギリシア文化が継承された。
キリスト教グノーシス(派)主義とは何か。本書では、ウァレンティノス派、バシレイデース派、マルキオン派の3思想が紹介されている。グノーシスに限らず、そのころ、宇宙(世界)の始原は物語によって説明されることが普通だった。とりわけ、宗教においては、天地創造が物語によって説明された。
グノーシス派の教えとはどのようなものだったのか。もちろんグノーシスの教えを一括りにすることはできない。正統多数派キリスト教の場合、至高神=創造神が、自ら創った人類を罪から救うために、自らの子・イエス・キリストを遣わし、人類に福音を伝えたとされる。
一方、マルキオン派を除くグノーシスの場合、至高神は、低劣な創造神が創った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すために、自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えたとされる。
マルキオン派の場合、至高神は、自らと縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとし、そのために至高神は自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた、という。
マルキオンは他のグノーシス派とは異なるものの、至高神が創造神の上位にあるという構造について共通している。物質(自然を含む)及び肉体が下位に属するという哲学は、プラトンのヒューレー(質料)という概念と似ている。このことを見ても、グノーシスがギリシア哲学の流れを汲んでいることは明白だ。また、マルキオン派は、聖書の正典数を限定し、多数派教会と対立した。
大雑把に言えば、キリスト教の教えをギリシア哲学ないしプラトン哲学の枠組みで理論的に体系化しようとしたのが、ウァレンティノス派、バシレイデース派となり、また文献伝承にメスを入れるまでして純粋な福音を再現しようとしたのがマルキオン派ということになる。
パレスチナで成立したキリスト教が勢力を増し、西方のローマに至るまでの間、東方(エジプト、シリア、ペルシア・・・)には複数のキリスト教教団が存在していた。たとえばエジプトにいまなお残存する「生誕派」は、現在でも、カトリックとは異なるキリスト教として活動を続けている。その中において、最大にして最強の教派は、グノーシスと対立した多数派教会だった。多数派教会はローマに定着し、やがて欧州を制覇し、世界規模のカトリック教会へと成長し現在に至る。
2世紀、グノーシスは、多数派教会から見れば異端であり、両者は互いに論争を繰り返し宗教として洗練度を増した。論争の結果、勝者は多数派教会(後のカトリック教会)であったことは歴史が証明しているのだが、グノーシスとの対立を経なければカトリックの教義の確立はなかった、という見方もできる。
キリスト教グノーシス(派)主義とは何か。本書では、ウァレンティノス派、バシレイデース派、マルキオン派の3思想が紹介されている。グノーシスに限らず、そのころ、宇宙(世界)の始原は物語によって説明されることが普通だった。とりわけ、宗教においては、天地創造が物語によって説明された。
グノーシス派の教えとはどのようなものだったのか。もちろんグノーシスの教えを一括りにすることはできない。正統多数派キリスト教の場合、至高神=創造神が、自ら創った人類を罪から救うために、自らの子・イエス・キリストを遣わし、人類に福音を伝えたとされる。
一方、マルキオン派を除くグノーシスの場合、至高神は、低劣な創造神が創った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すために、自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えたとされる。
マルキオン派の場合、至高神は、自らと縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとし、そのために至高神は自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた、という。
マルキオンは他のグノーシス派とは異なるものの、至高神が創造神の上位にあるという構造について共通している。物質(自然を含む)及び肉体が下位に属するという哲学は、プラトンのヒューレー(質料)という概念と似ている。このことを見ても、グノーシスがギリシア哲学の流れを汲んでいることは明白だ。また、マルキオン派は、聖書の正典数を限定し、多数派教会と対立した。
大雑把に言えば、キリスト教の教えをギリシア哲学ないしプラトン哲学の枠組みで理論的に体系化しようとしたのが、ウァレンティノス派、バシレイデース派となり、また文献伝承にメスを入れるまでして純粋な福音を再現しようとしたのがマルキオン派ということになる。
パレスチナで成立したキリスト教が勢力を増し、西方のローマに至るまでの間、東方(エジプト、シリア、ペルシア・・・)には複数のキリスト教教団が存在していた。たとえばエジプトにいまなお残存する「生誕派」は、現在でも、カトリックとは異なるキリスト教として活動を続けている。その中において、最大にして最強の教派は、グノーシスと対立した多数派教会だった。多数派教会はローマに定着し、やがて欧州を制覇し、世界規模のカトリック教会へと成長し現在に至る。
2世紀、グノーシスは、多数派教会から見れば異端であり、両者は互いに論争を繰り返し宗教として洗練度を増した。論争の結果、勝者は多数派教会(後のカトリック教会)であったことは歴史が証明しているのだが、グノーシスとの対立を経なければカトリックの教義の確立はなかった、という見方もできる。
2005年8月23日火曜日
『クローヴィス』
●ルネ・ミュソ=グラール[著] ●白水社 ●951円+税
ローマ帝国崩壊後、ガリア(現在のフランス)の地に、ゲルマン系諸族が王国を打ち立てた。その中でガリアの大半を掌握したのが、クローヴィスを王とするフランク族だった。本書は、クローヴィスの生涯を描いた歴史書である。
そもそもローマ以前の古代ガリアは、ケルト人が支配する土地だった。ローマ帝国建国後、ケルト人は隣接するローマ帝国と小規模な戦闘を繰り返し対立を続けたものの、カエサルによって滅ぼされてしまった。そのときカエサルが著した記録的文書が、かの有名な『ガリア戦記』である。ローマ支配となってラテン化されたガリアは、「ガロ・ローマ」と呼ばれる。
フランク族が属するゲルマン諸族はヨーロッパの東北部を出自とするが、1~2世紀ごろから徐々に南下を始めガリアに到達しており、ケルトとゲルマンはこの地方で互いに融合していたともいわれ、ガロ・ローマ期にはローマの影響をつよく受容していたことが分かっている。
ローマ帝国の衰退と並行して、ゲルマン諸族はローマ防衛を担当する軍事部隊としてローマの国家機構内部に組込まれていた。ところが、4世紀になるとローマの制御が利かなくなり、各地で暴動や蜂起が始まるようになった。そして、イタリアは(東)ゴート人の手に落ち、ガリアも(西)ゴート人、ブルグント人、フランク人によって分割支配された。そのときガリアに進出したフランク人の一派・サリー族の族長がクローヴィスにほかならない。
ガリアの新しい支配者、ゴート人、ブルグント人がアリウス派キリスト教に属していたのに反し、クローヴィスはカトリック信者だった。カトリックだった婦人の影響により、カトリックに改宗したといわれ、フランクは部族そのものがカトリックを信仰していた。
クローヴィスは、カトリック教会と親密な関係を築きつつ、ガリアを分割支配していたゴート人、ブルグント人に軍事的勝利をおさめ、パリに入城した。クローヴィスは存命中にガリア統一は果たせなかったものの、西欧における〈カトリックの聖性〉とゲルマン人の軍事力・政治力〈俗権〉の統合による支配原理の確立は、クローヴィスを起源とする。クローヴィスの即位が「古代の終わり、中世の始まり」といわれる所以である。
なお、赤白紺のトリコロール(フランス国旗)は18世紀のフランス革命時の「自由・平等・博愛」を象徴するといわれている。がしかし、トリコロールがサリー=フランク族がローマ防衛軍の一部隊として掲げていた軍旗であったことを本書で初めて知った。トリコロールも新しいようでいて、実は古い。
2005年8月21日日曜日
『戦後責任論』
●高橋哲哉[著] ●講談社学術文庫 ●960円+税
本書に収録された論文は、戦後50年に当たる年を中心としたもの。その過半は、当時話題となった『敗戦後論』(加藤典洋著)への反論になっている。
いまから10年前というのはどんな年だったかというと、朝鮮人「慰安婦」が日本政府を相手取り、補償を求める訴訟を起こしたことが象徴するように、アジア近隣諸国から日本の戦争犯罪、戦争責任を告発する事件が頻発した年だった。その背景には、冷戦の終焉があった。アジア諸国にあっての戦後とは、ソ連・中国といった社会主義(スターリン主義)国家の脅威を免れるため、米国・日本と軍事的経済的同盟関係を結ぶことを余儀なくされたものだった。いわゆる「敵の敵は味方」の論理だ。アジア太平洋戦争で米国にとって日本は敵だったが、米国の新たな敵である中ソの出現によって、中ソの敵であった日本が米国にとっての味方に変わった。日本の敵だったアジア諸国も同様に、自由主義国家群という枠組みの中において、日本が味方になった。その結果、日本の戦争責任・戦争犯罪を厳しく問うことができなかった。その典型が日韓条約だった。韓国は日本に対して日本の戦争責任と戦争犯罪を問う立場にありながら、西側という枠組みの中で、日本と同盟を結び、北朝鮮・中国・ソ連と対峙しなければならなかった。
1990年代、冷戦が終わり、中ソの脅威が薄らぐに従い、韓国を中心に、日帝の戦争犯罪糾弾の声が強くなった。1990年代になってようやく、東アジアにおいてアジア太平洋戦争再考の気運が盛り上がったのだ。
そのような中、加藤典洋が『敗戦後論』を著した。同書はアジア太平洋戦争の戦争責任の主体を問うことに主眼が置かれた内容で、とりわけ、「日本人犠牲者300万人の死者を先に立たせなければ、2千万人のアジアの死者につながらない」という記述が代表するように、ナショナリズムの色合いが濃かった。加藤の『敗戦後論』に対し、高橋はことあるごとに、批判を繰り返した。本書はそのときの高橋の反論を集成したものだ。
加藤が「日本人」を前面に出してアジア太平洋戦争の責任を考えたのに対し、高橋は「普遍的市民」の立場によって、それを考えている。高橋は高橋自らを含め万人が国民国家に属する現実を認めつつも、国民国家の下では戦争の廃絶も戦争責任も戦争犯罪も問えないという立場をとるように思える。
1868年に成立した明治国家は憲法と議会をもってはいたものの、欧州における国民国家と同じものではないような気もする。加藤VS高橋が講座派と労農派の対立軸と同じだとは言わないが、普遍的市民の倫理・正義だけで戦争が論じ切れるとも思えない。日帝の戦争責任は国際法上はドイツと同じように告発され償われなければいけないが、思想上はドイツと同様の解明はできないのではないかと。
終わった戦争の責任を問うことが、将来に向けた戦争の廃絶と同じくらい困難であるということが、筆者にはたまらなく、重く辛く感じる。糸口が見えない。
戦争を考えるシリーズは、いま話題の『靖国問題』の著者・高橋哲哉がいまから10年ほど前に戦争責任について言及した論文集をもって最後とする。
本書に収録された論文は、戦後50年に当たる年を中心としたもの。その過半は、当時話題となった『敗戦後論』(加藤典洋著)への反論になっている。
いまから10年前というのはどんな年だったかというと、朝鮮人「慰安婦」が日本政府を相手取り、補償を求める訴訟を起こしたことが象徴するように、アジア近隣諸国から日本の戦争犯罪、戦争責任を告発する事件が頻発した年だった。その背景には、冷戦の終焉があった。アジア諸国にあっての戦後とは、ソ連・中国といった社会主義(スターリン主義)国家の脅威を免れるため、米国・日本と軍事的経済的同盟関係を結ぶことを余儀なくされたものだった。いわゆる「敵の敵は味方」の論理だ。アジア太平洋戦争で米国にとって日本は敵だったが、米国の新たな敵である中ソの出現によって、中ソの敵であった日本が米国にとっての味方に変わった。日本の敵だったアジア諸国も同様に、自由主義国家群という枠組みの中において、日本が味方になった。その結果、日本の戦争責任・戦争犯罪を厳しく問うことができなかった。その典型が日韓条約だった。韓国は日本に対して日本の戦争責任と戦争犯罪を問う立場にありながら、西側という枠組みの中で、日本と同盟を結び、北朝鮮・中国・ソ連と対峙しなければならなかった。
1990年代、冷戦が終わり、中ソの脅威が薄らぐに従い、韓国を中心に、日帝の戦争犯罪糾弾の声が強くなった。1990年代になってようやく、東アジアにおいてアジア太平洋戦争再考の気運が盛り上がったのだ。
そのような中、加藤典洋が『敗戦後論』を著した。同書はアジア太平洋戦争の戦争責任の主体を問うことに主眼が置かれた内容で、とりわけ、「日本人犠牲者300万人の死者を先に立たせなければ、2千万人のアジアの死者につながらない」という記述が代表するように、ナショナリズムの色合いが濃かった。加藤の『敗戦後論』に対し、高橋はことあるごとに、批判を繰り返した。本書はそのときの高橋の反論を集成したものだ。
加藤が「日本人」を前面に出してアジア太平洋戦争の責任を考えたのに対し、高橋は「普遍的市民」の立場によって、それを考えている。高橋は高橋自らを含め万人が国民国家に属する現実を認めつつも、国民国家の下では戦争の廃絶も戦争責任も戦争犯罪も問えないという立場をとるように思える。
それに対して加藤は、日本の戦争と戦争犯罪は、日本人固有の精神性・信仰に基づいて思考し行動した帰結であって、国民国家の下に成立しながら、それを超えて構想される「普遍的市民」の倫理や正義という原理に照らしても有効な回答となり得ないと考えているように思える。
1868年に成立した明治国家は憲法と議会をもってはいたものの、欧州における国民国家と同じものではないような気もする。加藤VS高橋が講座派と労農派の対立軸と同じだとは言わないが、普遍的市民の倫理・正義だけで戦争が論じ切れるとも思えない。日帝の戦争責任は国際法上はドイツと同じように告発され償われなければいけないが、思想上はドイツと同様の解明はできないのではないかと。
終わった戦争の責任を問うことが、将来に向けた戦争の廃絶と同じくらい困難であるということが、筆者にはたまらなく、重く辛く感じる。糸口が見えない。
2005年8月15日月曜日
『日本が神の国だった時代』
●入江曜子[著] ●岩波新書 ●740円+税
戦争を考えるシリーズの第三弾。本書副題にある国民学校というのは、1941年3月1日「国民学校令」によって公布、同年4月1日の施行により誕生した、日本の初等教育機関のこと。この年、国民学校が、それまでの「小学校」に取って代わることになった。
国民学校創設の狙いは、日本が大東亜共栄圏構想の下、日中戦争→英米開戦を控え、天皇と国家に盲目的に従う人間の育成を目指したことだった。
国民学校の教科書や教育内容では、日本は神武以来の神の国で、始原より天皇が国を治め、国民(臣民)は天皇のためにすべて(生命)を投げ出すことが勤めだとされた。さらに、周辺諸国にも、日本の伝統的宗教(国家神道)の信仰を強要し、「日本臣民」として、天皇のためにつくすことを求めた。国民学校の教科書は、だから、「満州国」、台湾、朝鮮においても使用された。
国民学校の教育を一言で言うならば、「皇国民」の練成ということになる。国民は天皇の赤子と呼ばれ、兵士(赤子)は戦場で無謀な作戦で危険にさらされたとき、生命を落とす前に、「天皇陛下、万歳」と叫ばなければ、非国民とされた。
兵士(赤子)の母は、息子が戦地で国のために犠牲(戦死)となることを喜びとした。女性は、戦争ために犠牲となる兵士(=男児)を産むことを強制された。母は借り腹で、生まれた子は天皇の子であり、天皇のために命を投げ出すことが勤めとされた。そのような国家的価値を初等教育において、子供たちに「刷り込んでおこう」というのが、国民学校の目的であり機能だった。
さて、確かに国民学校の教科書や教育内容は、日本がアジア太平洋戦争で行ってきた戦争犯罪、周辺諸国の植民地化、超国家主義、天皇信仰といったものに同調している。しかし、「国民学校令」の公布(1941)は総力戦直前であり、そこから教育を始めても教育効果が現れるのは少なくとも6年後(1946=戦後)となろう。つまり、国民学校創設以前に、日本の天皇制超国家主義体制というのは、完成していたことになる。国民学校は、天皇制超国家主義思想の教育的集大成(体系化)であって、国民学校によって、天皇制超国家主義思想が国民に直接刷り込まれたわけではない。つまり、結果であって主因ではない。
筆者にはどうしてもわからないことなのだが、日本人がなぜ、天皇制超国家主義体制を容認し、進んで命を賭して戦争をしたのだろうか。国民すべてが、そのような施策を積極的に受容したのだろうか。天皇のために命を落とすことを喜びと感じたのだろうか・・・
自問自答するならば、日本人のすべてが、宗教的呪縛に包まれていたからではないかと思う。宗教的呪縛というのは言葉足らずだけれど、宗教の力でなければ、人間は非合理的な選択をしない。狭い意味の戦争、つまり、戦闘に参加した兵士(神風特攻員を代表的存在として)、また、それを喜びをもって送り出した日本の母親を含め、戦争を機会として、みな殉教を選んだのだと思う。若い兵士たちは、戦場を殉死の場として自ら選んだように思える。
いまからおよそ70年前といえば、つい最近のこと。そのころ、日本の教師たちは、かくも非合理的・非科学的な「歴史」や「道徳」を、小学生に対して、(国民)学校という場で、疑問もなく教えていたのかと思うと唖然とする。だが、人間がすべてに合理的かつ科学的選択をするとは限らない。理性、科学を万能と考えてはいけない。われわれ日本人が、日本という国家をつかって、かくもあきれた教育をまじめに執り行っていたことを、けっして忘れてはならない。
戦争を考えるシリーズの第三弾。本書副題にある国民学校というのは、1941年3月1日「国民学校令」によって公布、同年4月1日の施行により誕生した、日本の初等教育機関のこと。この年、国民学校が、それまでの「小学校」に取って代わることになった。
国民学校創設の狙いは、日本が大東亜共栄圏構想の下、日中戦争→英米開戦を控え、天皇と国家に盲目的に従う人間の育成を目指したことだった。
国民学校の教科書や教育内容では、日本は神武以来の神の国で、始原より天皇が国を治め、国民(臣民)は天皇のためにすべて(生命)を投げ出すことが勤めだとされた。さらに、周辺諸国にも、日本の伝統的宗教(国家神道)の信仰を強要し、「日本臣民」として、天皇のためにつくすことを求めた。国民学校の教科書は、だから、「満州国」、台湾、朝鮮においても使用された。
国民学校の教育を一言で言うならば、「皇国民」の練成ということになる。国民は天皇の赤子と呼ばれ、兵士(赤子)は戦場で無謀な作戦で危険にさらされたとき、生命を落とす前に、「天皇陛下、万歳」と叫ばなければ、非国民とされた。
兵士(赤子)の母は、息子が戦地で国のために犠牲(戦死)となることを喜びとした。女性は、戦争ために犠牲となる兵士(=男児)を産むことを強制された。母は借り腹で、生まれた子は天皇の子であり、天皇のために命を投げ出すことが勤めとされた。そのような国家的価値を初等教育において、子供たちに「刷り込んでおこう」というのが、国民学校の目的であり機能だった。
さて、確かに国民学校の教科書や教育内容は、日本がアジア太平洋戦争で行ってきた戦争犯罪、周辺諸国の植民地化、超国家主義、天皇信仰といったものに同調している。しかし、「国民学校令」の公布(1941)は総力戦直前であり、そこから教育を始めても教育効果が現れるのは少なくとも6年後(1946=戦後)となろう。つまり、国民学校創設以前に、日本の天皇制超国家主義体制というのは、完成していたことになる。国民学校は、天皇制超国家主義思想の教育的集大成(体系化)であって、国民学校によって、天皇制超国家主義思想が国民に直接刷り込まれたわけではない。つまり、結果であって主因ではない。
筆者にはどうしてもわからないことなのだが、日本人がなぜ、天皇制超国家主義体制を容認し、進んで命を賭して戦争をしたのだろうか。国民すべてが、そのような施策を積極的に受容したのだろうか。天皇のために命を落とすことを喜びと感じたのだろうか・・・
自問自答するならば、日本人のすべてが、宗教的呪縛に包まれていたからではないかと思う。宗教的呪縛というのは言葉足らずだけれど、宗教の力でなければ、人間は非合理的な選択をしない。狭い意味の戦争、つまり、戦闘に参加した兵士(神風特攻員を代表的存在として)、また、それを喜びをもって送り出した日本の母親を含め、戦争を機会として、みな殉教を選んだのだと思う。若い兵士たちは、戦場を殉死の場として自ら選んだように思える。
いまからおよそ70年前といえば、つい最近のこと。そのころ、日本の教師たちは、かくも非合理的・非科学的な「歴史」や「道徳」を、小学生に対して、(国民)学校という場で、疑問もなく教えていたのかと思うと唖然とする。だが、人間がすべてに合理的かつ科学的選択をするとは限らない。理性、科学を万能と考えてはいけない。われわれ日本人が、日本という国家をつかって、かくもあきれた教育をまじめに執り行っていたことを、けっして忘れてはならない。
2005年8月13日土曜日
『8月15日の神話』
●佐藤卓己[著] ●ちくま新書 ●820円+税
いまから、60年前、日本はアジア太平洋戦争で軍事的に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ降伏文書に調印した。わずか、60年前の1月間に満たない短期間の史実(出来事)であるにもかかわらず、驚くなかれ、今日の日本のマスメディアは、そのことを正確に報道または記述していない。
今日の日本人の大多数は、日本が戦争に負けた日を8月15日だと認識している。ところが、ポツダム宣言受諾の日は8月14日、降伏文書調印は9月2日だ。欧米諸国の場合、第二次世界大戦終結の日は9月2日であるとされ、歴史教科書の記述も国民的認識にも、ぶれはない。米国の場合、その日を「VJディ」として、全国民が共通に認識している。
一方、日本国民が8月15日を「終戦記念日」と認識したのは、戦争当時の記憶から手繰り寄せられたものではない。その日を終戦と認識し出したのは、1980年以降だと本書は分析する。終戦記念日を8月15日に法制化したのは、それよりも前だが、日本が戦後復興を完全に成し遂げ、世界で有数の経済大国となったとき、日本の終戦が8月15日と認識されたと本書はいう。この指摘は驚きであると同時に、著者の慧眼に感服するばかりだ。極論すれば、日本国民に戦争の記憶が薄れだすに従い、「日本は戦争に負けだのではない」「天皇が戦争をやめたのだ」という記憶の置き換えが、そのころから始まったのだ。
8月15日が戦争終結の日とされる根拠は、いうまでもなく、天皇が戦争終結のラジオ放送(「玉音放送」)を行ったからだろう。あの日、全国民が跪いて畏まって、天皇の戦争終結の放送を聞いた・・・というのは、実は真実ではない。多くの国民は、ラジオの声からは戦争終結を聞き取ってはいない。その声が消え、アナウンサーによる補足説明で、そのことを知った、というのが真実だ。大多数の国民が「玉音放送」を涙で聞いたという虚構=神話をつくったのは、大新聞だというのが、本書の趣旨だ。本書によると、「玉音放送」を国民が畏まって聞いたとされる新聞写真及び記事は、新聞記者・カメラマン・編集者があらかじめ仕込んでおいた、やらせ写真等及び予定稿による創作だったことが著者の調査と取材によって、明らかにされる。
日本の大新聞というものは、誠に恐ろしい。戦時下、大本営発表で国民を欺き、しかも、敗戦に至っては、国民を創作写真と作文記事で欺いたのだ。メディアの責任はあまりにも大きい。しかも、戦後、メディアはそうした虚構記事を集め、終戦記念特集として、何度も何度も繰り返し国民に増幅して提供することによって、ポツダム宣言受諾、降伏文書調印という世界標準の歴史を、日本国民から消去させたのだ。
日本人は、戦争~敗戦~戦後というおよそ70年弱の歴史ですら、為政者に奪われている。国民から歴史を奪ったのは為政者であり、その執行者はマスメディアだった。新聞が抱え込んだ歴史の偽造責任を断じて許すことはできない。
なお、本書が行った、《戦死者の記憶~お盆~夏の高校野球》が習合した、8月=日本人の死の季節感の分析も、たいへんすばらしい。そこで著者が行った、夏の高校野球大会の批判的分析も優れている。筆者も漠然とそのような思いを抱いていたのだが、著者は、主催者(朝日新聞社)の騙しの戦略を完璧に見抜いている。夏の高校野球の欺瞞性を知りたい方は、本書を一読してもムダではない。
戦争特集の第二弾――たいへんすぐれたメディア論を紹介する。今日のメディア時代において、歴史認識というものがどのように形成されるかを透視した論考として、本書はもっともすぐれたものの1つだろう。
いまから、60年前、日本はアジア太平洋戦争で軍事的に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ降伏文書に調印した。わずか、60年前の1月間に満たない短期間の史実(出来事)であるにもかかわらず、驚くなかれ、今日の日本のマスメディアは、そのことを正確に報道または記述していない。
今日の日本人の大多数は、日本が戦争に負けた日を8月15日だと認識している。ところが、ポツダム宣言受諾の日は8月14日、降伏文書調印は9月2日だ。欧米諸国の場合、第二次世界大戦終結の日は9月2日であるとされ、歴史教科書の記述も国民的認識にも、ぶれはない。米国の場合、その日を「VJディ」として、全国民が共通に認識している。
一方、日本国民が8月15日を「終戦記念日」と認識したのは、戦争当時の記憶から手繰り寄せられたものではない。その日を終戦と認識し出したのは、1980年以降だと本書は分析する。終戦記念日を8月15日に法制化したのは、それよりも前だが、日本が戦後復興を完全に成し遂げ、世界で有数の経済大国となったとき、日本の終戦が8月15日と認識されたと本書はいう。この指摘は驚きであると同時に、著者の慧眼に感服するばかりだ。極論すれば、日本国民に戦争の記憶が薄れだすに従い、「日本は戦争に負けだのではない」「天皇が戦争をやめたのだ」という記憶の置き換えが、そのころから始まったのだ。
8月15日が戦争終結の日とされる根拠は、いうまでもなく、天皇が戦争終結のラジオ放送(「玉音放送」)を行ったからだろう。あの日、全国民が跪いて畏まって、天皇の戦争終結の放送を聞いた・・・というのは、実は真実ではない。多くの国民は、ラジオの声からは戦争終結を聞き取ってはいない。その声が消え、アナウンサーによる補足説明で、そのことを知った、というのが真実だ。大多数の国民が「玉音放送」を涙で聞いたという虚構=神話をつくったのは、大新聞だというのが、本書の趣旨だ。本書によると、「玉音放送」を国民が畏まって聞いたとされる新聞写真及び記事は、新聞記者・カメラマン・編集者があらかじめ仕込んでおいた、やらせ写真等及び予定稿による創作だったことが著者の調査と取材によって、明らかにされる。
日本の大新聞というものは、誠に恐ろしい。戦時下、大本営発表で国民を欺き、しかも、敗戦に至っては、国民を創作写真と作文記事で欺いたのだ。メディアの責任はあまりにも大きい。しかも、戦後、メディアはそうした虚構記事を集め、終戦記念特集として、何度も何度も繰り返し国民に増幅して提供することによって、ポツダム宣言受諾、降伏文書調印という世界標準の歴史を、日本国民から消去させたのだ。
日本人は、戦争~敗戦~戦後というおよそ70年弱の歴史ですら、為政者に奪われている。国民から歴史を奪ったのは為政者であり、その執行者はマスメディアだった。新聞が抱え込んだ歴史の偽造責任を断じて許すことはできない。
なお、本書が行った、《戦死者の記憶~お盆~夏の高校野球》が習合した、8月=日本人の死の季節感の分析も、たいへんすばらしい。そこで著者が行った、夏の高校野球大会の批判的分析も優れている。筆者も漠然とそのような思いを抱いていたのだが、著者は、主催者(朝日新聞社)の騙しの戦略を完璧に見抜いている。夏の高校野球の欺瞞性を知りたい方は、本書を一読してもムダではない。
2005年7月30日土曜日
『あの戦争は何だったのか』
●保坂正康[著] ●新潮新書 ●720円+税
8月を控え、アジア太平洋戦争に係る新書を4冊(本書、『8月15日の神話』『日本が「神の国」だった時代』『戦後責任論』)を連続で書評する。その第1回である。この試みは、アジア太平洋戦争を概括的におさえることを目的とする。
本題が示すように、あの戦争にはわからないことが多い。だれが何を目的に始めたのか、なぜあのような狂信的な気分に国民がひたったのか。310万人~500万人といわれる犠牲者を出す前に、なぜ、戦争を終結できなかったのか・・・
著者は本書を通じて、そうした疑問に丁重に答えようとしている。だが、それでも、筆者にはそれらの疑問が氷解したわけではない。
戦争開始の背景には、陸軍と海軍の対立があったといわれる。また、教育の「成果」だともいわれる。国民性だともいわれる。米国の陰謀だとも・・・ただ1ついえるのは、明治国家成立とアジア太平洋戦争は一直線に結びついているということ。このことに疑いようがない。つまり、日本人の国民性――エトスといわれるものは、高々明治国家成立以降に培われたものにすぎない。もちろん、明治国家成立前にも、武士道、切腹といった、生を軽んずる傾向は認められるけれど、それは武士と呼ばれる一部階級の倫理観にすぎなかった。
ところが、明治国家が近代戦争(日清戦争)を始めてから、日本国民すべてが、生を軽んじ、死を恐れない戦闘的国民へと変貌していった。本書は、戦争を支えた日本人の精神性についての記述は乏しい。政局、戦局、軍部についての分析を重点的に記述しているからである。そのことももちろん重要だけれど、筆者は、日本人の精神性と,あの戦争の関係について問うてみたい。
なお、戦後社会は、玉音放送が流された8月15日をもって、終戦記念日としているが、著者が指摘するように、このことは戦後社会の無責任性を象徴している出来事の1つである。アジア太平洋戦争が終わったのは、日本政府が無条件降伏文書に署名した9月2日である。8月15日以降、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍の軍事行動により、北方で多くの日本人が犠牲になっていることを忘れてはならない。さらに、捕虜になった民間人・関東軍の兵士がシベリア抑留という、非人道的扱いを受けた。もちろん、8月15日以前には、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲などにより、それぞれ、数十万人という生活者が犠牲になった。あの戦争は何だったのか・・・
8月を控え、アジア太平洋戦争に係る新書を4冊(本書、『8月15日の神話』『日本が「神の国」だった時代』『戦後責任論』)を連続で書評する。その第1回である。この試みは、アジア太平洋戦争を概括的におさえることを目的とする。
本題が示すように、あの戦争にはわからないことが多い。だれが何を目的に始めたのか、なぜあのような狂信的な気分に国民がひたったのか。310万人~500万人といわれる犠牲者を出す前に、なぜ、戦争を終結できなかったのか・・・
著者は本書を通じて、そうした疑問に丁重に答えようとしている。だが、それでも、筆者にはそれらの疑問が氷解したわけではない。
戦争開始の背景には、陸軍と海軍の対立があったといわれる。また、教育の「成果」だともいわれる。国民性だともいわれる。米国の陰謀だとも・・・ただ1ついえるのは、明治国家成立とアジア太平洋戦争は一直線に結びついているということ。このことに疑いようがない。つまり、日本人の国民性――エトスといわれるものは、高々明治国家成立以降に培われたものにすぎない。もちろん、明治国家成立前にも、武士道、切腹といった、生を軽んずる傾向は認められるけれど、それは武士と呼ばれる一部階級の倫理観にすぎなかった。
ところが、明治国家が近代戦争(日清戦争)を始めてから、日本国民すべてが、生を軽んじ、死を恐れない戦闘的国民へと変貌していった。本書は、戦争を支えた日本人の精神性についての記述は乏しい。政局、戦局、軍部についての分析を重点的に記述しているからである。そのことももちろん重要だけれど、筆者は、日本人の精神性と,あの戦争の関係について問うてみたい。
なお、戦後社会は、玉音放送が流された8月15日をもって、終戦記念日としているが、著者が指摘するように、このことは戦後社会の無責任性を象徴している出来事の1つである。アジア太平洋戦争が終わったのは、日本政府が無条件降伏文書に署名した9月2日である。8月15日以降、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍の軍事行動により、北方で多くの日本人が犠牲になっていることを忘れてはならない。さらに、捕虜になった民間人・関東軍の兵士がシベリア抑留という、非人道的扱いを受けた。もちろん、8月15日以前には、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲などにより、それぞれ、数十万人という生活者が犠牲になった。あの戦争は何だったのか・・・
2005年7月25日月曜日
『LEFT ALONE 持続するニューレフトの「68年革命」』
●絓秀実・井上紀州・松田政男ほか[著] ●明石書店 ●2200円+税
本書は同名の映画の活字による再現だ。副題の「68年革命」というのは、1960年代後期、先進国で勢いを得た急進的左翼運動の高揚した情況を象徴的に指す言葉。もちろん、68年に政治的(つまり共産主義政権樹立という)意味における「革命」は、欧米日本等の先進資本主義体制国家では起きていない。
60年代後期、アメリカはベトナム戦争下にあり、学生を中心とした反戦・反人種差別(=公民権運動)運動が全米に吹き荒れた。ヨーロッパでは、西ドイツで赤軍派が結成されたし、フランスでは学生がパリのカルチェラタン地区を解放区とする運動が起こり、急進的労働者のゼネストと連帯寸前にまで情況が煮詰まった。あたかもそれは、革命前夜のような様相を呈した。日本では学生運動が全共闘運動として全国的に盛り上がり、暴力的街頭デモが連日行われた。中国では、紅衛兵が組織され、中国共産党内の官僚的実権派が毛沢東により粛清された。
これら運動の共通項は、旧来の左翼(ソ連を頂点とする共産党指導)による運動ではなく、新左翼と呼ばれる新前衛党によるものだった。本書は日本における新前衛党結成期に与った松田政男、西部邁、柄谷行人らに、かつて全共闘運動活動家で現在は評論家の絓秀実がインタビューを試みたもの。絓秀実は1949年生まれだが、松田・西部・柄谷らは全共闘世代よリ前の世代に属する。
戦後日本においてソ連の指導のもとに政治活動を行った前衛党は、日本共産党及びマルクス主義解釈で共産党と対立した日本社会党の2党であった。ところが、1960年の安保闘争を機に、既成前衛党(=日本共産党)から、共産主義者同盟(ブント)が分離した。ブントは安保闘争敗北を境に衰退し、その過程で、革命的共産主義者同盟が分派した。60年代中葉、両同盟はマルクス主義解釈、組織論、運動論で互いに対立しつつ、また、内部分裂を繰り返したものの、1967年、三派系全学連(=学生大衆組織)で共闘を成功させ、街頭暴力運動を積極的に展開し、民衆の支持を得るまでに成長した。その詳しい経緯等については、本書の註に詳しい。
新左翼運動の核心は、大雑把に言って、反帝国主義・反スターリン主義、世界同時革命、暴力革命、(哲学的には)疎外論、初期マルクス(『経哲草稿』『ドイツイデオロギー』等)の読み直し・・・などだった。
ところが、69年以降、全共闘運動は衰退する。と同時に新左翼各党派は内ゲバ・リンチ殺人等々の事件を引き起こし、大衆的支持を失う。80年代、90年代、新左翼は絶滅したとさえ、言われた。
本書は、若い世代による、絶滅し化石となったと言われる日本の新左翼研究であり、その成果の1つと言える。インタビュアーであり、本書(本映画)の「主役」は、絓秀実。彼は、衰退したと言われる新左翼革命運動は、実はいまなお持続しており、諸々の世直しに貢献している、と主張する。
本書のテーマである持続する「68年革命」とは、今日の社会的価値観の形成は、60年代を通じて生まれ育った新左翼運動を含めた大衆的高揚(換言すれば社会革命か)の影響下にあることを意味する。新左翼運動の総括的研究は本書だけではないのだが、今日との連続性を問うものは管見の限り少ない。ただし、本書において、連続性を実証する具体的エビデンスとなると心もとない。そのあたりが充足すれば、新左翼の見直しの気運が再び起こる可能性もないとは言えない。
60年代後期、アメリカはベトナム戦争下にあり、学生を中心とした反戦・反人種差別(=公民権運動)運動が全米に吹き荒れた。ヨーロッパでは、西ドイツで赤軍派が結成されたし、フランスでは学生がパリのカルチェラタン地区を解放区とする運動が起こり、急進的労働者のゼネストと連帯寸前にまで情況が煮詰まった。あたかもそれは、革命前夜のような様相を呈した。日本では学生運動が全共闘運動として全国的に盛り上がり、暴力的街頭デモが連日行われた。中国では、紅衛兵が組織され、中国共産党内の官僚的実権派が毛沢東により粛清された。
これら運動の共通項は、旧来の左翼(ソ連を頂点とする共産党指導)による運動ではなく、新左翼と呼ばれる新前衛党によるものだった。本書は日本における新前衛党結成期に与った松田政男、西部邁、柄谷行人らに、かつて全共闘運動活動家で現在は評論家の絓秀実がインタビューを試みたもの。絓秀実は1949年生まれだが、松田・西部・柄谷らは全共闘世代よリ前の世代に属する。
戦後日本においてソ連の指導のもとに政治活動を行った前衛党は、日本共産党及びマルクス主義解釈で共産党と対立した日本社会党の2党であった。ところが、1960年の安保闘争を機に、既成前衛党(=日本共産党)から、共産主義者同盟(ブント)が分離した。ブントは安保闘争敗北を境に衰退し、その過程で、革命的共産主義者同盟が分派した。60年代中葉、両同盟はマルクス主義解釈、組織論、運動論で互いに対立しつつ、また、内部分裂を繰り返したものの、1967年、三派系全学連(=学生大衆組織)で共闘を成功させ、街頭暴力運動を積極的に展開し、民衆の支持を得るまでに成長した。その詳しい経緯等については、本書の註に詳しい。
新左翼運動の核心は、大雑把に言って、反帝国主義・反スターリン主義、世界同時革命、暴力革命、(哲学的には)疎外論、初期マルクス(『経哲草稿』『ドイツイデオロギー』等)の読み直し・・・などだった。
ところが、69年以降、全共闘運動は衰退する。と同時に新左翼各党派は内ゲバ・リンチ殺人等々の事件を引き起こし、大衆的支持を失う。80年代、90年代、新左翼は絶滅したとさえ、言われた。
本書は、若い世代による、絶滅し化石となったと言われる日本の新左翼研究であり、その成果の1つと言える。インタビュアーであり、本書(本映画)の「主役」は、絓秀実。彼は、衰退したと言われる新左翼革命運動は、実はいまなお持続しており、諸々の世直しに貢献している、と主張する。
本書のテーマである持続する「68年革命」とは、今日の社会的価値観の形成は、60年代を通じて生まれ育った新左翼運動を含めた大衆的高揚(換言すれば社会革命か)の影響下にあることを意味する。新左翼運動の総括的研究は本書だけではないのだが、今日との連続性を問うものは管見の限り少ない。ただし、本書において、連続性を実証する具体的エビデンスとなると心もとない。そのあたりが充足すれば、新左翼の見直しの気運が再び起こる可能性もないとは言えない。
2005年7月20日水曜日
『マニ教』
●ミシェル・タルデュー[著] ●文庫クセジュ ●951円+税
3世紀のイラン、メソポタミアは、キリスト教、ユダヤ教の分派活動の結果生まれた新宗教や、ギリシア哲学を発展させた新思想が生まれ、それらが互いに議論を交わし、自らの存続をかけて活動したところだった。マニ教は、そんな情況が生み出し育んだ宗教の1つ。
マニの父は「ムグタジラ」(アラビア語)、ギリシア語では「アルカサイオス」または「アルハサイ」「エルカサイ」の信者だった。「エルカサイ」は、洗礼派キリスト教という説もあるが、ユダヤ教の一派であるという説が有力だ。
マニは4歳から「エルカサイ」に入信し、しばらくの間その宗教活動に従事したが、西暦228年(マニ12歳のとき)天啓を受け、預言者へと成長していくことになる。
マニ教とはどんな宗教なのか。組織論としての特徴は、厳粛な身分制度を堅持した宗教であったことが挙げられる。教団は「選良者」と「聴講者」に区分された。「聴講者」の最下位に位置するのが在家信者で、彼らにはもっともゆるやかな戒律が課せられた。「選良者」の最下位には修道士が位置したが、修道士の戒律は厳しく、「聴講者」の日常とは、大きな隔たりがあった。
マニ教徒の義務としては、戒律、祈祷、布施、断食、懺悔の5事項があった。この5種類は後世のイスラム教の「五柱」である、信仰告白、祈祷、布施、断食、巡礼に酷似している。イスラム教がマニ教の影響の下にあったことは明白だ。
さて、マニ教の教義を、筆者がここで手短にまとめることは極めて難しい。本書を手始めに、興味をお持ちの方々がそれぞれ学習していただくことが一番だが、筆者の大雑把な理解を以下に記しておく。
天と地及びその中のすべてのものの存在に先立ち、善なる本質(光=「偉大なる父」=アッパ・ドゥ・ラップタ)と悪なる本質(「暗闇の王」=ムレク・へシュカ)が存在する。「偉大なる父」の外側に、知性・知識・思考・熟慮・意識の5つの住居(スキタナ)が住んでいる。一方、「暗闇の王」は彼の大地である、彼の5つの世界、煙界、火界、風界、水界、暗黒界に住んでいる。
第一次の戦闘:「暗闇の王」から偉大なる父に向けて敵対行為が開始される。
「偉大なる父」は最初の一連の召命(最初の創造)を呼び出すことによって、「暗闇の王」の攻撃に反撃する決定を下す。「偉大なる父」は「活ける者たちの母」(エンマ・ドゥ・ハッイェ)を呼び出し「活ける者たちの母」は「原人」(ナシャ・カドマヤ)を呼び出し、「原人」が5人の息子を、戦いの武具を身に着けるかのように呼び出す。
「暗闇の王」によって、「原人」とその息子達は敗北する。そして、「偉大なる父」が再び召命(第二の創造)を呼び出すことによって、第二の反撃を加え、「原人」が活ける霊によって救済される・・・
以下、「偉大なる父」と「暗闇の王」との戦いが何度か繰り返され、召命(創造)が呼び出され、何度となく「原人」とその息子達が復活し、「活ける霊」が創造主(デミウルゴス)として働き、「使者」によって、宇宙の機械が始動される。
やがて、戦闘は神々のレベルで終わり、人間のレベルで始まる。最後の光の一片が混合相手の物質から救出され父の知的な5つの光輝(ジーワーネー)である完全な「人間」が回復されるまで続く。
さて、マニ教の特徴は、善悪の「極性」及び「5」を基数とする「5個組性」並びに「多名性」にある、といわれている。
「極性」はニ神論を表すようにも思えるが、本書によると、善悪の二極性は、ニ神の弁証法的な駆け引き(戦い)を意味するという。悪は善を引き出す役割を担うということだろうか。
「多名性」ついては、たとえば、「暗闇の王」については、「悪魔」(ギリシャ語、ラテン語、コブト語資料)、「サタン」(アラビア語資料)、「アハレメン」(中期ペルシア語、パルティア語、古代トルコ語資料)、「シマヌ/シムヌ」(ソグド語ほか)・・・と言い換えられているという。「偉大なる父」についても同様にいくつもの呼称が与えられている。
マニは、ユダヤ教の一派から分離し、キリスト教や伝統的宗教を取り込んで、独自の教義と組織論をもってマニ教を完成。その布教に努めたが、西暦274年、ゾロアスター教を公認するバグダッド近くの小国の王・バハラームによって殺された。
マニ教発生の地はイスラム圏の中心部だが、では、周縁部ではどうなのだろうか。例えば、インド西部とかイランの僻地とかで、マニ教徒に出会ってみたいと思うのは、筆者だけだろうか。
マニ教の開祖・マニは3世紀、メソポタミアに生まれた。この時代、イラン(ペルシア)、メソポタミア地域は、キリスト教各派、ユダヤ教各派の周辺宗教と、イラン起源の伝統的宗教であるゾロアスター教などが信仰されていた。
その一方、インド起源の仏教の流入もあり、また、ギリシア哲学の影響も認められた。ギリシア哲学としては、グノーシス派の影響が強かった。
3世紀のイラン、メソポタミアは、キリスト教、ユダヤ教の分派活動の結果生まれた新宗教や、ギリシア哲学を発展させた新思想が生まれ、それらが互いに議論を交わし、自らの存続をかけて活動したところだった。マニ教は、そんな情況が生み出し育んだ宗教の1つ。
マニの父は「ムグタジラ」(アラビア語)、ギリシア語では「アルカサイオス」または「アルハサイ」「エルカサイ」の信者だった。「エルカサイ」は、洗礼派キリスト教という説もあるが、ユダヤ教の一派であるという説が有力だ。
マニは4歳から「エルカサイ」に入信し、しばらくの間その宗教活動に従事したが、西暦228年(マニ12歳のとき)天啓を受け、預言者へと成長していくことになる。
マニ教とはどんな宗教なのか。組織論としての特徴は、厳粛な身分制度を堅持した宗教であったことが挙げられる。教団は「選良者」と「聴講者」に区分された。「聴講者」の最下位に位置するのが在家信者で、彼らにはもっともゆるやかな戒律が課せられた。「選良者」の最下位には修道士が位置したが、修道士の戒律は厳しく、「聴講者」の日常とは、大きな隔たりがあった。
マニ教徒の義務としては、戒律、祈祷、布施、断食、懺悔の5事項があった。この5種類は後世のイスラム教の「五柱」である、信仰告白、祈祷、布施、断食、巡礼に酷似している。イスラム教がマニ教の影響の下にあったことは明白だ。
さて、マニ教の教義を、筆者がここで手短にまとめることは極めて難しい。本書を手始めに、興味をお持ちの方々がそれぞれ学習していただくことが一番だが、筆者の大雑把な理解を以下に記しておく。
天と地及びその中のすべてのものの存在に先立ち、善なる本質(光=「偉大なる父」=アッパ・ドゥ・ラップタ)と悪なる本質(「暗闇の王」=ムレク・へシュカ)が存在する。「偉大なる父」の外側に、知性・知識・思考・熟慮・意識の5つの住居(スキタナ)が住んでいる。一方、「暗闇の王」は彼の大地である、彼の5つの世界、煙界、火界、風界、水界、暗黒界に住んでいる。
第一次の戦闘:「暗闇の王」から偉大なる父に向けて敵対行為が開始される。
「偉大なる父」は最初の一連の召命(最初の創造)を呼び出すことによって、「暗闇の王」の攻撃に反撃する決定を下す。「偉大なる父」は「活ける者たちの母」(エンマ・ドゥ・ハッイェ)を呼び出し「活ける者たちの母」は「原人」(ナシャ・カドマヤ)を呼び出し、「原人」が5人の息子を、戦いの武具を身に着けるかのように呼び出す。
「暗闇の王」によって、「原人」とその息子達は敗北する。そして、「偉大なる父」が再び召命(第二の創造)を呼び出すことによって、第二の反撃を加え、「原人」が活ける霊によって救済される・・・
以下、「偉大なる父」と「暗闇の王」との戦いが何度か繰り返され、召命(創造)が呼び出され、何度となく「原人」とその息子達が復活し、「活ける霊」が創造主(デミウルゴス)として働き、「使者」によって、宇宙の機械が始動される。
やがて、戦闘は神々のレベルで終わり、人間のレベルで始まる。最後の光の一片が混合相手の物質から救出され父の知的な5つの光輝(ジーワーネー)である完全な「人間」が回復されるまで続く。
さて、マニ教の特徴は、善悪の「極性」及び「5」を基数とする「5個組性」並びに「多名性」にある、といわれている。
「極性」はニ神論を表すようにも思えるが、本書によると、善悪の二極性は、ニ神の弁証法的な駆け引き(戦い)を意味するという。悪は善を引き出す役割を担うということだろうか。
「多名性」ついては、たとえば、「暗闇の王」については、「悪魔」(ギリシャ語、ラテン語、コブト語資料)、「サタン」(アラビア語資料)、「アハレメン」(中期ペルシア語、パルティア語、古代トルコ語資料)、「シマヌ/シムヌ」(ソグド語ほか)・・・と言い換えられているという。「偉大なる父」についても同様にいくつもの呼称が与えられている。
マニは、ユダヤ教の一派から分離し、キリスト教や伝統的宗教を取り込んで、独自の教義と組織論をもってマニ教を完成。その布教に努めたが、西暦274年、ゾロアスター教を公認するバグダッド近くの小国の王・バハラームによって殺された。
マニの死後、マニ教は弟子達によって、東はインドから中国に至るまで、西は西欧にまで広がったものの、どういう理由か、世界宗教となるに至らなかった。本書にはマニ教が今、どういう形で信仰されてるか記されていないが、素人判断では、イラン、メソポタミア等においては、イスラム教に吸収されたものと解釈されよう。
マニ教発生の地はイスラム圏の中心部だが、では、周縁部ではどうなのだろうか。例えば、インド西部とかイランの僻地とかで、マニ教徒に出会ってみたいと思うのは、筆者だけだろうか。
2005年6月21日火曜日
『教育と国家』
●高橋哲哉[著] ●講談社現代新書 ●720円+税
いま話題の『靖国問題』の著者・高橋哲哉が日本の教育問題を論じている。筆者は教育にあまり関心がない。多くの人と同じように学校は好きだったけれど、授業やテストが嫌いだったし、教育と聞くだけで胡散臭さを感じてしまう。師にも縁がないし、もちろん、弟子や教え子もいない。
本書が論じている教育とは、もちろん、そういうレベルの「教育」ではない。教育とは、国家(政治・行政)が学校制度をとおして国民に植えつける価値形成のことであり、さらにいえば、国が個人の人間形成に与える影響のことだ。
日本には教育基本法があり、日本の教育の運営の根幹をなしている。教育基本法は、戦前大日本帝国が行っていた臣民教育の反省を中核として制定されたものだ。戦前の教育は、いまさら繰り返すまでもなく、恐ろしいものだった。教育勅語、修身が代表するとおり、アジア諸国を侵略し日本国民を無益な死に追いやった元凶だった。戦前の教育の特徴は、国家に隷属する臣民の養成にあり、その教育の「成果」により、日本は焦土と化し、310万人以上がなくなった。さらに、侵略されたアジア諸国の犠牲者は2千万人を超えるともも言われくらい、惨憺たるものだった。間違っても、あのころの教育に帰ることがあってはならない。
ところが、いまの日本では驚くなかれ、教育基本法の改正が目論まれ、学校の現場では国家斉唱・国旗掲揚が強制され、それを拒否した教師、生徒には処分が課されるという。さらに、ショービニズム的「愛国心」教育が学習指導要領等の行政権限で強制されているという。
これにはマスコミも手を貸している。たとえば、未成年者、とりわけ児童・生徒の凶悪犯罪については、統計的にはいま現在、減少安定期にあるにもかかわらず、増加傾向にあるかのような報道が一般化していることで明白だ。
ある保守系政治家が、「児童生徒の凶悪犯罪の“増加”は、今日の教育に問題がある」とか、「教育基本法のある箇所に、少年犯罪を増加させるような記述があるので、同法を改正する必要がある」という発言をすると、マスコミはそれをそのまま報道してしまうという。
真のジャーナリズムならば、そのような発言を掲載する前に、犯罪統計を調べて、いま現在、少年犯罪は増加していない、と保守系政治家の「発言」を虚言としてさばかなければいけない。また、教育基本法の原文を当たり、そのような記述は同法には見当たらないので、これもまた虚言である、と報じなければいけない。しかしながら、日本の報道機関はそれをせず、政治家の「虚言」を「意見」として、取り上げてしまう。日本のジャーナリズムは、保守系政治家・政党の広報を担っているというわけだ。
教育基本法の改正がいまなぜ、保守系勢力にとって必要なのか――その答えは、もちろん、新国家主義の台頭による。国家が国民を自由にコントロールできる教育、反戦平和主義を「時代遅れ」として退け、ことあらば周辺諸国と一戦交えることを辞さずという心構えを持たせる教育、そんな「普通の国」づくりを彼等が目指そうとしているからだ。「愛国心」教育も同じだ。国家と国民を絶対不可分の関係に固定させ、国難には国民の犠牲を厭わないような、「愛国心」の醸成が意図されているのだ。
著者は、日本の保守勢力が進めている恐ろしい「教育改革」の実態を暴き、「愛国心」教育のウソを衝く。
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いま話題の『靖国問題』の著者・高橋哲哉が日本の教育問題を論じている。筆者は教育にあまり関心がない。多くの人と同じように学校は好きだったけれど、授業やテストが嫌いだったし、教育と聞くだけで胡散臭さを感じてしまう。師にも縁がないし、もちろん、弟子や教え子もいない。
本書が論じている教育とは、もちろん、そういうレベルの「教育」ではない。教育とは、国家(政治・行政)が学校制度をとおして国民に植えつける価値形成のことであり、さらにいえば、国が個人の人間形成に与える影響のことだ。
日本には教育基本法があり、日本の教育の運営の根幹をなしている。教育基本法は、戦前大日本帝国が行っていた臣民教育の反省を中核として制定されたものだ。戦前の教育は、いまさら繰り返すまでもなく、恐ろしいものだった。教育勅語、修身が代表するとおり、アジア諸国を侵略し日本国民を無益な死に追いやった元凶だった。戦前の教育の特徴は、国家に隷属する臣民の養成にあり、その教育の「成果」により、日本は焦土と化し、310万人以上がなくなった。さらに、侵略されたアジア諸国の犠牲者は2千万人を超えるともも言われくらい、惨憺たるものだった。間違っても、あのころの教育に帰ることがあってはならない。
ところが、いまの日本では驚くなかれ、教育基本法の改正が目論まれ、学校の現場では国家斉唱・国旗掲揚が強制され、それを拒否した教師、生徒には処分が課されるという。さらに、ショービニズム的「愛国心」教育が学習指導要領等の行政権限で強制されているという。
これにはマスコミも手を貸している。たとえば、未成年者、とりわけ児童・生徒の凶悪犯罪については、統計的にはいま現在、減少安定期にあるにもかかわらず、増加傾向にあるかのような報道が一般化していることで明白だ。
ある保守系政治家が、「児童生徒の凶悪犯罪の“増加”は、今日の教育に問題がある」とか、「教育基本法のある箇所に、少年犯罪を増加させるような記述があるので、同法を改正する必要がある」という発言をすると、マスコミはそれをそのまま報道してしまうという。
真のジャーナリズムならば、そのような発言を掲載する前に、犯罪統計を調べて、いま現在、少年犯罪は増加していない、と保守系政治家の「発言」を虚言としてさばかなければいけない。また、教育基本法の原文を当たり、そのような記述は同法には見当たらないので、これもまた虚言である、と報じなければいけない。しかしながら、日本の報道機関はそれをせず、政治家の「虚言」を「意見」として、取り上げてしまう。日本のジャーナリズムは、保守系政治家・政党の広報を担っているというわけだ。
教育基本法の改正がいまなぜ、保守系勢力にとって必要なのか――その答えは、もちろん、新国家主義の台頭による。国家が国民を自由にコントロールできる教育、反戦平和主義を「時代遅れ」として退け、ことあらば周辺諸国と一戦交えることを辞さずという心構えを持たせる教育、そんな「普通の国」づくりを彼等が目指そうとしているからだ。「愛国心」教育も同じだ。国家と国民を絶対不可分の関係に固定させ、国難には国民の犠牲を厭わないような、「愛国心」の醸成が意図されているのだ。
著者は、日本の保守勢力が進めている恐ろしい「教育改革」の実態を暴き、「愛国心」教育のウソを衝く。
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2005年6月17日金曜日
『異端カタリ派』
●フェルナン・ニール[著] ●文庫クセジュ ●951円+税
カタリ派とは一般にキリスト教の異端の1つとされる。中世、現在のフランス南部の都市・トゥールーズを中心に大きな勢力を維持していた。
本書は、カタリ派とは何かという問から発し、13世紀、カトリック教会が差し向けたアルビジョア十字軍と呼ばれる軍事介入とその後の異端審問により、その勢力が一掃されるまでの解説書だ。もちろん、カタリ派の入門書の1つなのだが、後述するとおり、かなり独断的な論証もある。
本書は、カタリ派をマニ教の派生宗教と位置づける。マニ教とは、3世紀ごろ、現在のイランで生まれた。開祖はマニ(マネス)。ゾロアスター教、古代哲学、キリスト教の3大潮流を総合した、グノーシス派の影響のもとに生まれた宗教だ。グノーシスとはギリシャ語で認識の意味。
ゾロアスター教は紀元前3千年紀の古代イラン文明に起源をもつとされる宗教。マヅダ教と同義。紀元前6~7世紀ごろ、ゾロアスターという人物によって体系化されたといわれている。善悪ニ神教だ。
ゾロアスター以降のマヅダ教になると、その基本概念が善の原理と悪の原理の永遠の闘争と説明されるようになる。善の原理はオルムッドないしアフラマヅダに体現され、悪の原理はアーリマンないしアングラマイニュの形をもって現れる。闘争の過程で両勢力は交互に優劣を繰り返し、すべての生命はこの闘争の結果に他ならないとされるが、究極の到達点はアーリマンの滅亡で、一神教を志向する。
善悪二神の分離の流れを踏襲したのがグノーシス派及びマニ教を形成し、一神教に傾斜していったのがカトリック(キリスト教)と大雑把にはいえるのかもしれない。
ところが、本書の訳者解説によると、カタリ派がマニ教の系列にあるかどうかは、証明されていないという。訳者によると、カタリ派は、カトリックに比べて、より禁欲主義的な傾向が強いというくらいしかわかっておらず、本書のようにカタリ派をマニ教と直接的に結びつける資料はいまのところ発見されてない、というのだ。
さて、そのカタリ派とは、「清浄」を意味するギリシア語・カタロスが語源。カタリ派の痕跡は、11~13世紀、フランス南部、北イタリア、ドイツ、フランドル、スイス、スペインの各所で認められているが、とりわけ、フランス南部に大きな勢力を持っていた。フランス南部はラングドックと呼ばれ、フランス北部のカトリック勢力の支配が及ばない地域で、宗教はもちろん、言語、文化、政治等々あらゆる分野で独立を保っていた。
フランス北部に不服従の姿勢をもっていた南部地方権力を一掃するため、フランス王とカトリック教会(インノケンティウス三世)は共謀して、異端カタリ派撲滅を理由に、「アルビジョア十字軍」30万人を組織。1209年、ラングドックに攻め込み、最初のカタリ派掃討のための軍事行動を行った。
南部の地方抵抗勢力は、「アルビジョア十字軍」により屈服。カタリ派はその後のカトリックによる異端審問で一掃され、14世紀には信者不在に至るが、彼等が立てこもり最後まで抵抗したのが、「モンセギュ―ル城」という天然の要塞だ。著者であるフェルナン・ニールは土木技術者で、この城を実際に測量し、それがマニ教の太陽崇拝の儀式を行う神殿としての機能を持っていた、という説を展開している。ところがこれも訳者によると、一仮説に過ぎないという。
マニ教とカタリ派の関係については、はっきり分かっていないとはいうものの、ゾロアスター、グノーシス派、マニ教の流れが、中世南フランスに残存していた、という著者の仮説を筆者は信じたい。
カタリ派とは一般にキリスト教の異端の1つとされる。中世、現在のフランス南部の都市・トゥールーズを中心に大きな勢力を維持していた。
本書は、カタリ派とは何かという問から発し、13世紀、カトリック教会が差し向けたアルビジョア十字軍と呼ばれる軍事介入とその後の異端審問により、その勢力が一掃されるまでの解説書だ。もちろん、カタリ派の入門書の1つなのだが、後述するとおり、かなり独断的な論証もある。
本書は、カタリ派をマニ教の派生宗教と位置づける。マニ教とは、3世紀ごろ、現在のイランで生まれた。開祖はマニ(マネス)。ゾロアスター教、古代哲学、キリスト教の3大潮流を総合した、グノーシス派の影響のもとに生まれた宗教だ。グノーシスとはギリシャ語で認識の意味。
ゾロアスター教は紀元前3千年紀の古代イラン文明に起源をもつとされる宗教。マヅダ教と同義。紀元前6~7世紀ごろ、ゾロアスターという人物によって体系化されたといわれている。善悪ニ神教だ。
ゾロアスター以降のマヅダ教になると、その基本概念が善の原理と悪の原理の永遠の闘争と説明されるようになる。善の原理はオルムッドないしアフラマヅダに体現され、悪の原理はアーリマンないしアングラマイニュの形をもって現れる。闘争の過程で両勢力は交互に優劣を繰り返し、すべての生命はこの闘争の結果に他ならないとされるが、究極の到達点はアーリマンの滅亡で、一神教を志向する。
善悪二神の分離の流れを踏襲したのがグノーシス派及びマニ教を形成し、一神教に傾斜していったのがカトリック(キリスト教)と大雑把にはいえるのかもしれない。
ところが、本書の訳者解説によると、カタリ派がマニ教の系列にあるかどうかは、証明されていないという。訳者によると、カタリ派は、カトリックに比べて、より禁欲主義的な傾向が強いというくらいしかわかっておらず、本書のようにカタリ派をマニ教と直接的に結びつける資料はいまのところ発見されてない、というのだ。
さて、そのカタリ派とは、「清浄」を意味するギリシア語・カタロスが語源。カタリ派の痕跡は、11~13世紀、フランス南部、北イタリア、ドイツ、フランドル、スイス、スペインの各所で認められているが、とりわけ、フランス南部に大きな勢力を持っていた。フランス南部はラングドックと呼ばれ、フランス北部のカトリック勢力の支配が及ばない地域で、宗教はもちろん、言語、文化、政治等々あらゆる分野で独立を保っていた。
フランス北部に不服従の姿勢をもっていた南部地方権力を一掃するため、フランス王とカトリック教会(インノケンティウス三世)は共謀して、異端カタリ派撲滅を理由に、「アルビジョア十字軍」30万人を組織。1209年、ラングドックに攻め込み、最初のカタリ派掃討のための軍事行動を行った。
南部の地方抵抗勢力は、「アルビジョア十字軍」により屈服。カタリ派はその後のカトリックによる異端審問で一掃され、14世紀には信者不在に至るが、彼等が立てこもり最後まで抵抗したのが、「モンセギュ―ル城」という天然の要塞だ。著者であるフェルナン・ニールは土木技術者で、この城を実際に測量し、それがマニ教の太陽崇拝の儀式を行う神殿としての機能を持っていた、という説を展開している。ところがこれも訳者によると、一仮説に過ぎないという。
マニ教とカタリ派の関係については、はっきり分かっていないとはいうものの、ゾロアスター、グノーシス派、マニ教の流れが、中世南フランスに残存していた、という著者の仮説を筆者は信じたい。
2005年6月5日日曜日
『蛮族の侵入』
●ピエール・リシェ[著] ●文庫クセジュ ●951円(+税)
376年、世界最強と思われたローマ帝国内に蛮族(ゲルマン系ゴート族)が侵入を開始。その後、ローマ帝国は東西に分裂、やがて西ローマ帝国は滅亡する。その後、東ローマ帝国の支援によりローマは一時期、再興をみるが、最後の蛮族、ランゴバルト族の侵略を受け蛮族の再支配を受けることになる。そのとき、ローマ(カトリック教会/ローマ教皇ステファヌス二世)は、蛮族の一派・フランク王国(ピピン)に援助を求める。
756年、支援の要請を受けたピピンはランゴバルト族を撃破し、回復した領土を聖ペテロに寄進する。
800年、小ピピンの息子・シャルルマーニュは、教皇レオ三世によって、皇帝として戴冠される。これをもって、“古代の終わり、中世の開始”といわれている。
本書は蛮族の侵入からシャルルマーニュの戴冠までの450年間弱の歴史をまとめたもの。蛮族の侵入から西ローマ帝国の滅亡、そして中世世界の成立を、▽ローマの内的弱体化と、▽遊牧系騎馬民族のフン族の圧力によるゲルマン族の移動という周辺情勢の変化、――を併せて、初心者向きに解説してくれる。むろん、ゲルマン系諸族の特性等についても、じゅうぶんな説明がある。
この出来事は、「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれ、高校の世界史でも学習するものだが、不思議なことが多い。たとえば、現在のフランスに該当するガロ=ローマ地域に侵入したゲルマン民族の比率は、先住民のわずか5%を占めるにすぎなかったという。たった5%のゲルマン人がフランク王国を樹立したということが理解しにくい。
もう1つは、ヨーロッパの東北部を元郷とするゲルマン系のバンダル族が、なんと、北アフリカに移動して、わずか100年程度ではあるが、現在のチュニジアあたりに王国を築いたことだ。いったいぜんたい、ゲルマン民族とはいかなる民族なのか。
さて、ゲルマン諸族はローマ帝国内に侵入後、しばらくはアリウス派キリスト教を信仰していたのだが、やがてヨーロッパの大半を支配することになる西ゴート族(スペインに定着)、フランク族(フランス・ドイツ・イタリアに定着)が、カトリックに改宗する。このことも、世界史上の大事件の1つといえる。ローマは滅びたが、ローマ教会は蛮族への布教を通じて、全ヨーロッパに勢力を拡大したのだ。ローマ教会生き残りの戦略も生々しい。
本書読了後も、筆者には「ゲルマンの謎」が深まるばかり。西欧史については、もっともっと勉強が必要ということか。
376年、世界最強と思われたローマ帝国内に蛮族(ゲルマン系ゴート族)が侵入を開始。その後、ローマ帝国は東西に分裂、やがて西ローマ帝国は滅亡する。その後、東ローマ帝国の支援によりローマは一時期、再興をみるが、最後の蛮族、ランゴバルト族の侵略を受け蛮族の再支配を受けることになる。そのとき、ローマ(カトリック教会/ローマ教皇ステファヌス二世)は、蛮族の一派・フランク王国(ピピン)に援助を求める。
756年、支援の要請を受けたピピンはランゴバルト族を撃破し、回復した領土を聖ペテロに寄進する。
800年、小ピピンの息子・シャルルマーニュは、教皇レオ三世によって、皇帝として戴冠される。これをもって、“古代の終わり、中世の開始”といわれている。
本書は蛮族の侵入からシャルルマーニュの戴冠までの450年間弱の歴史をまとめたもの。蛮族の侵入から西ローマ帝国の滅亡、そして中世世界の成立を、▽ローマの内的弱体化と、▽遊牧系騎馬民族のフン族の圧力によるゲルマン族の移動という周辺情勢の変化、――を併せて、初心者向きに解説してくれる。むろん、ゲルマン系諸族の特性等についても、じゅうぶんな説明がある。
この出来事は、「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれ、高校の世界史でも学習するものだが、不思議なことが多い。たとえば、現在のフランスに該当するガロ=ローマ地域に侵入したゲルマン民族の比率は、先住民のわずか5%を占めるにすぎなかったという。たった5%のゲルマン人がフランク王国を樹立したということが理解しにくい。
もう1つは、ヨーロッパの東北部を元郷とするゲルマン系のバンダル族が、なんと、北アフリカに移動して、わずか100年程度ではあるが、現在のチュニジアあたりに王国を築いたことだ。いったいぜんたい、ゲルマン民族とはいかなる民族なのか。
さて、ゲルマン諸族はローマ帝国内に侵入後、しばらくはアリウス派キリスト教を信仰していたのだが、やがてヨーロッパの大半を支配することになる西ゴート族(スペインに定着)、フランク族(フランス・ドイツ・イタリアに定着)が、カトリックに改宗する。このことも、世界史上の大事件の1つといえる。ローマは滅びたが、ローマ教会は蛮族への布教を通じて、全ヨーロッパに勢力を拡大したのだ。ローマ教会生き残りの戦略も生々しい。
本書読了後も、筆者には「ゲルマンの謎」が深まるばかり。西欧史については、もっともっと勉強が必要ということか。
『靖国問題』
●高橋哲哉[著] ●ちくま新書 ●720円+税
著者は靖国問題を次のように整理する。
靖国をめぐる「感情の問題」では、靖国のシステムの本質が、戦死の悲しみを喜びに、不幸を幸福に逆転させる「感情の錬金術」にあること。
「歴史認識の問題」では、A級戦犯合祀問題は靖国に関わる歴史認識問題の一部にすぎず、本来日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべきこと。
「宗教の問題」では、これまで首相や天皇の靖国参拝を憲法違反としたり、その違憲性を示唆した司法判断はいくつかあるが、合憲とした確定判決は1つもないことを確認し、靖国神社を「非宗教化」することは不可能であること。また、「神社非宗教」の虚構こそ、かつて「国家神道」が猛威を振るったゆえんに他ならなかったこと。
「文化の問題」では、死者を祀ることが日本の伝統であることはそのとおりだが、歴史的には、敵も味方も祀ることが一般的であること。靖国が兵士及びそれに準ずる者だけを戦没者としてを祀ることは、政治的行為であること。また、戦死者を祀ったり追悼したりする儀式は、世界共通であるが、国民国家の成立以降に始められたにすぎぬこと。
以上の著者の整理は妥当であり、立論に誤謬はない。戦争は国内問題ではない。植民地戦争で戦死した兵士を英霊とすることは、侵略され植民地化されたた側の痛みを共有しない。だから、「靖国」が一国の問題として、閉じられて論じられることはありえない。
筆者は、いまの中国共産党政府がチベット、ウイグル新疆地区等で行った、また、まさにいま行っている弾圧を不当だと考える。中国には、日本の侵略戦争を批判する資格はないと思う。けれども、だからといって、日本の侵略戦争が正当化される理由にはならない。
中国共産党政府の立場は現実的である。中国共産党政府は、中国国民が日本の植民地戦争で被害を受けたことに留意しなければならない立場にある。中国国民には、反日感情が強い。日本政府の代表者が靖国に正式参拝することに耐え難い感情をもっている。けれども、中国と日本は、経済を中心に友好的な関係を結ぶ必要も感じている。そこで、中国共産党政府が示した靖国問題の落としどころは、A級戦犯分祀だった。日本人一般が靖国に祀られ参拝することまでは文句は言わない、首相が一般戦没者を参拝することもかまわない、けれど、A級戦犯をそこから外してくれ、それなら、中国国民も文句を言わない、というのが中国の内政~外交のメカニズムだ。そこで合意するかどうjかは、外交の選択であり国益の問題である。感情や文化や宗教の問題ではない。きわめて世俗的な問題なのだ。
筆者は、中国が示した靖国見解は現実的なものだと思う。日本が中国と経済を中心に友好的な関係を築くうえで、A級戦犯の分祀が実現しないのなら、首相の参拝をしないことの方が賢明だ。しかし、こうした外交の合意点は、靖国問題の一部である。そのレベルの議論に固執していては、靖国問題の本質から遠ざかる。
マスコミにおける粗雑な靖国議論に比べて、本書はきわめて良質な「靖国論」である。本書を読まずして靖国問題を語ることは許されまい。
著者は靖国問題を次のように整理する。
靖国をめぐる「感情の問題」では、靖国のシステムの本質が、戦死の悲しみを喜びに、不幸を幸福に逆転させる「感情の錬金術」にあること。
「歴史認識の問題」では、A級戦犯合祀問題は靖国に関わる歴史認識問題の一部にすぎず、本来日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべきこと。
「宗教の問題」では、これまで首相や天皇の靖国参拝を憲法違反としたり、その違憲性を示唆した司法判断はいくつかあるが、合憲とした確定判決は1つもないことを確認し、靖国神社を「非宗教化」することは不可能であること。また、「神社非宗教」の虚構こそ、かつて「国家神道」が猛威を振るったゆえんに他ならなかったこと。
「文化の問題」では、死者を祀ることが日本の伝統であることはそのとおりだが、歴史的には、敵も味方も祀ることが一般的であること。靖国が兵士及びそれに準ずる者だけを戦没者としてを祀ることは、政治的行為であること。また、戦死者を祀ったり追悼したりする儀式は、世界共通であるが、国民国家の成立以降に始められたにすぎぬこと。
以上の著者の整理は妥当であり、立論に誤謬はない。戦争は国内問題ではない。植民地戦争で戦死した兵士を英霊とすることは、侵略され植民地化されたた側の痛みを共有しない。だから、「靖国」が一国の問題として、閉じられて論じられることはありえない。
筆者は、いまの中国共産党政府がチベット、ウイグル新疆地区等で行った、また、まさにいま行っている弾圧を不当だと考える。中国には、日本の侵略戦争を批判する資格はないと思う。けれども、だからといって、日本の侵略戦争が正当化される理由にはならない。
中国共産党政府の立場は現実的である。中国共産党政府は、中国国民が日本の植民地戦争で被害を受けたことに留意しなければならない立場にある。中国国民には、反日感情が強い。日本政府の代表者が靖国に正式参拝することに耐え難い感情をもっている。けれども、中国と日本は、経済を中心に友好的な関係を結ぶ必要も感じている。そこで、中国共産党政府が示した靖国問題の落としどころは、A級戦犯分祀だった。日本人一般が靖国に祀られ参拝することまでは文句は言わない、首相が一般戦没者を参拝することもかまわない、けれど、A級戦犯をそこから外してくれ、それなら、中国国民も文句を言わない、というのが中国の内政~外交のメカニズムだ。そこで合意するかどうjかは、外交の選択であり国益の問題である。感情や文化や宗教の問題ではない。きわめて世俗的な問題なのだ。
筆者は、中国が示した靖国見解は現実的なものだと思う。日本が中国と経済を中心に友好的な関係を築くうえで、A級戦犯の分祀が実現しないのなら、首相の参拝をしないことの方が賢明だ。しかし、こうした外交の合意点は、靖国問題の一部である。そのレベルの議論に固執していては、靖国問題の本質から遠ざかる。
2005年5月5日木曜日
『フランスの「美しい村」を訪ねて』
●辻 啓一[著及び撮影] ●角川書店 ●875円+税
本書は、パリ在住の日本人写真家が「フランスでも最も美しい村100選」というフランス観光局公認の村々を取材・撮影したもの。雑誌『マリークレール日本版』に連載した記事を大幅加筆して編集したという。「美しい村」に公認されるためには、電線を地中化しなければいけないなど、厳しい基準を満たさなければいけないらしい。
本書では、(1)パリ近郊、(2)アルザス周辺、(3)ブルゴーニュ周辺、(4)ローヌ・アルプ・プロヴァンス、(5)ミディ・ピレーネ周辺、の5地区・26村が紹介されている。26の村々のなかで筆者が訪れたことがあるのは、コンクだけ。ほかの村々については名前さえ知らなかった。
これらの村々は日本における知名度は低いものの、中世の面影を色濃く残し、古い教会(多くはロマネスク様式)、石積みの建物、石畳の舗道等々で構成されたところばかりだ。むろん、村には、十分な観光施設が備えられているとは言えないけれど、雰囲気はある。また、名所・旧跡というほどのスポットがあるわけではないけれど、いかにも“ヨーロッパ”という景観を残していて、村を訪れた人は、中世にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるに違いない。
著者はそんな村で暮らすアーチストやホテルのオーナーを紹介しつつ、村の特産料理やワインに舌鼓を打っている。長いゴールデンウイーク、東京でくすぶっている筆者にはうらやましい限り。著者は、このような村の滞在は2日間で十分だというが、筆者には行きたいようないきたくないような、判断に迷うところもある。というのも、景観としては魅力的だが、霊気や怨念といった、歴史的な重みにやや欠けるような気がするからだ。
本書では、(1)パリ近郊、(2)アルザス周辺、(3)ブルゴーニュ周辺、(4)ローヌ・アルプ・プロヴァンス、(5)ミディ・ピレーネ周辺、の5地区・26村が紹介されている。26の村々のなかで筆者が訪れたことがあるのは、コンクだけ。ほかの村々については名前さえ知らなかった。
これらの村々は日本における知名度は低いものの、中世の面影を色濃く残し、古い教会(多くはロマネスク様式)、石積みの建物、石畳の舗道等々で構成されたところばかりだ。むろん、村には、十分な観光施設が備えられているとは言えないけれど、雰囲気はある。また、名所・旧跡というほどのスポットがあるわけではないけれど、いかにも“ヨーロッパ”という景観を残していて、村を訪れた人は、中世にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるに違いない。
著者はそんな村で暮らすアーチストやホテルのオーナーを紹介しつつ、村の特産料理やワインに舌鼓を打っている。長いゴールデンウイーク、東京でくすぶっている筆者にはうらやましい限り。著者は、このような村の滞在は2日間で十分だというが、筆者には行きたいようないきたくないような、判断に迷うところもある。というのも、景観としては魅力的だが、霊気や怨念といった、歴史的な重みにやや欠けるような気がするからだ。
2005年5月4日水曜日
『物語 カタルーニャの歴史』
●田澤耕[著] ●中公新書 ●780円+税
そもそも、スペインが統一されたのは中世末期から近世の初めの時期。スペインの歴史は、連続した1つのアイデンティティで括れない。こうした複雑さは欧州ではスペインに限らないけれど、スペインはその複雑さでは群を抜いている。
なので、スペインの歴史を大雑把におさえておこう。
ところが、15世紀、中世が終わり近代への黎明期、北部のカスティーリア王国がスペインの覇権を握り、やがて、スペイン=ハプスブルク帝国としてイベリア半島を統一、新大陸を含めた大帝国を築く。カスティリーア王国=スペインハプスブルク帝国の成立とともに、カタルーニアは衰退した。それでも、カタルーニヤは文化的に独立した地域として、独自性をかろうじて、保持することができた。
カタルーニヤの滅亡を決定づけたのは、現代のスペイン内乱であった。本書は中世のカタルーニヤの歴史書であるため、この内乱については詳しく触れていない。
カタルーニヤが滅亡した主因は、スペイン内乱で共和国支持を打ち出し、フランコ=ファシスト側と対立したことであった。スペイン内乱は、共和国側の敗北で終わる。そして、戦後成立したフランコ独裁体制の下、カタルーニヤは徹底した弾圧を受けることになる。中世のカタルーニヤの繁栄とファシスト=フランコ政権下の弾圧――どちらも重要な歴史である。(本書は前者に限定した内容となっているので、スペイン内乱とカタルーニヤについては、カタルーニヤの近代史・現代史を読む必要がある)
国民国家が言語、宗教、民族といった歴史的な諸要素を基盤としているようでいて、実は、借り物(幻想)であることは、よく知られている。いまのスペインを歴史的共同性からみれば、1つの国民国家として成立する根拠はない。カタルーニヤの歴史は、国民国家が不完全な共同体であることを象徴する。スペインが分裂するのか、それとも、EUという超国家の発展が、国民国家の枠組みを撤廃して、逆に歴史的共同体を復活させることに向かうのか、ヨーロッパがいま、おもしろい。
カタルーニヤとは現在スペインがフランスと接する、地中海沿岸の地域。バルセロナが「首都」に当たる。この地域ではいまでもカタルーニヤ語が話され、マドリードを中心としたスペインとは異なる文化圏だといわれている。
そもそも、スペインが統一されたのは中世末期から近世の初めの時期。スペインの歴史は、連続した1つのアイデンティティで括れない。こうした複雑さは欧州ではスペインに限らないけれど、スペインはその複雑さでは群を抜いている。
なので、スペインの歴史を大雑把におさえておこう。
まず、イベリア半島に先住していていた民族はアフリカ系のイベロ人と呼ばれた。その後、印・欧語族のケルト人がやってくる。ケルト人はイベロ人と混血して、セルティベロ人と呼ばれ、現在のスペイン人の祖先になった。やがて、ケルト勢力はローマに滅ぼされ、この地はラテンの支配を受けるようになる。そのローマ人はゲルマン系諸族の侵入により滅亡し、ゲルマン系の一派である、西ゴート族がこの地の支配者となる。西ゴートはローマからキリスト教をもってくる。しかし、イスラム勢力の台頭により、西ゴート王国は滅亡、イベリア半島はイスラムの支配を受け、キリスト教勢力は北部に追いやられてしまう。しかし、北部に残されたキリスト教勢力が巻き返しを図り、レコンキスタ(祖国回復)が開始される。カタルーニヤはアラゴンと連合して、この時代から、現在のスペイン内部で独立した勢力となり、中世初期からから近世のはじめまで、カタルーニア・アラゴン王国として繁栄した。
ところが、15世紀、中世が終わり近代への黎明期、北部のカスティーリア王国がスペインの覇権を握り、やがて、スペイン=ハプスブルク帝国としてイベリア半島を統一、新大陸を含めた大帝国を築く。カスティリーア王国=スペインハプスブルク帝国の成立とともに、カタルーニアは衰退した。それでも、カタルーニヤは文化的に独立した地域として、独自性をかろうじて、保持することができた。
カタルーニヤの滅亡を決定づけたのは、現代のスペイン内乱であった。本書は中世のカタルーニヤの歴史書であるため、この内乱については詳しく触れていない。
カタルーニヤが滅亡した主因は、スペイン内乱で共和国支持を打ち出し、フランコ=ファシスト側と対立したことであった。スペイン内乱は、共和国側の敗北で終わる。そして、戦後成立したフランコ独裁体制の下、カタルーニヤは徹底した弾圧を受けることになる。中世のカタルーニヤの繁栄とファシスト=フランコ政権下の弾圧――どちらも重要な歴史である。(本書は前者に限定した内容となっているので、スペイン内乱とカタルーニヤについては、カタルーニヤの近代史・現代史を読む必要がある)
国民国家が言語、宗教、民族といった歴史的な諸要素を基盤としているようでいて、実は、借り物(幻想)であることは、よく知られている。いまのスペインを歴史的共同性からみれば、1つの国民国家として成立する根拠はない。カタルーニヤの歴史は、国民国家が不完全な共同体であることを象徴する。スペインが分裂するのか、それとも、EUという超国家の発展が、国民国家の枠組みを撤廃して、逆に歴史的共同体を復活させることに向かうのか、ヨーロッパがいま、おもしろい。
『世界のイスラム建築』
●深見奈緒子[著] ●講談社現代新書 ●740円(税別)
筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。
イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。
イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。
ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。
さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。
イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。
第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。
第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。
第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。
第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。
(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。
(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。
(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。
第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。
①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。
第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。
たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。
イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。
イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。
今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。
筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。
イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。
イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。
ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。
さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。
イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。
第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。
第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。
第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。
第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。
(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。
(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。
(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。
第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。
①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。
第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。
たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。
イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。
イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。
今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。
2005年3月31日木曜日
『ケルト映画紀行』
●武部好伸[著] ●論創社 ●価格不明(古本)
さて、アイルランド系移民の多いアメリカでは、北アイルランドを舞台にした政治闘争及び反英武装闘争を展開したIRAにちなんだ映画が多数つくられている。北アイルランドとイングランドの対立の根源には、宗教上の対立があると言われ、そのような図式で映画がつくられている場合もある。また、映画は娯楽媒体なので、アクション映画に仕立てられたものもある。こうした映画を「ケルト」という概念で括ることは難しい。また、現代アイルランド社会を描いた映画の中には、ケルト民族やケルト文化との連続性でとらえられないものもある。このことは、アイルランドの現代における社会現象について、ケルトという概念にどこまで還元できるのか――と換言できる。
アイルランドの基層民族はケルト人だ。ケルト民族はローマ、ゲルマンに圧迫された、幻の民だ――こうした見方は、ケルトロマン主義を醸成する。現代アイルランドの諸事象が、ケルトという魅力的な「概念」ばかりで過剰に説明され、アイルランド経済、アイルランド社会の現実を歪めるのではないか――そんな疑問も残る。
本書は、ケルト民族、ケルト文化をテーマにした映画の舞台となった、アイルランド、ウェールズ、コンウォール、マン島、スコットランドを旅行した印象をまとめたもの。その地にちなんだ映画の粗筋、名場面、俳優、監督の紹介や、その地の人々とのふれあいもあり、また、簡単なケルト民族、ケルト文化の解説もある。
さて、アイルランド系移民の多いアメリカでは、北アイルランドを舞台にした政治闘争及び反英武装闘争を展開したIRAにちなんだ映画が多数つくられている。北アイルランドとイングランドの対立の根源には、宗教上の対立があると言われ、そのような図式で映画がつくられている場合もある。また、映画は娯楽媒体なので、アクション映画に仕立てられたものもある。こうした映画を「ケルト」という概念で括ることは難しい。また、現代アイルランド社会を描いた映画の中には、ケルト民族やケルト文化との連続性でとらえられないものもある。このことは、アイルランドの現代における社会現象について、ケルトという概念にどこまで還元できるのか――と換言できる。
アイルランドの基層民族はケルト人だ。ケルト民族はローマ、ゲルマンに圧迫された、幻の民だ――こうした見方は、ケルトロマン主義を醸成する。現代アイルランドの諸事象が、ケルトという魅力的な「概念」ばかりで過剰に説明され、アイルランド経済、アイルランド社会の現実を歪めるのではないか――そんな疑問も残る。
2005年3月21日月曜日
『十字軍』
●ジョルジョ・タート[著] ●創元社 ●1400円

私が注目したのは、十字軍遠征に伴うイスラム教徒の殺害をだれがどう合理化したのかだった。つまり、キリスト教の教えの中に、異教徒抹殺の信仰的基盤が根ざしているのかどうか――この問については、本書資料編の聖ベルナールがテンプル騎士団の修道士たちに向けて行った、「良心的参戦拒否者に対する説明」を読むことによって、解答を得られる。
聖ベルナールは本来、修道士の集まりだったテンプル騎士団を軍隊化する過程で、戦闘に参加することを拒否しようとした良心的宗教者に対して、軍事活動=異教徒殺害は、神の教えに適うというような意味の説明を行った。以降、異教徒に対する虐殺、拷問、略奪などの暴力が神の名において許されたと解釈できる。
聖ベルナールの「説明」は、西欧の侵略主義の根拠となって、その後の南仏のカタリ派弾圧=アルビジョア十字軍や、近世の新大陸植民地化、アジア・アフリカの植民地化、そして今日の米国のアフガン、イラク戦争にまで続いていくことになる。
西欧のキリスト教は基本的に侵略主義であると考えてさしつかえない。軍事的にそれが実現できないときには、彼らは西欧に引きこもって時を待つ。十字軍から今日まで、西欧側からの侵略の歴史は、その繰り返しだった。西欧のキリスト教は、十字軍以前と以降では、根本的に異なるものだと考えなければいけない。だから、聖書に「汝、殺すなかれ」と書かれているから、キリスト教は平和主義だと考えてはいけない。そんな幻想を抱いている人は、聖ベルナールの「説明」を読んでほしい。キリスト教が、この「説明」の誤謬を指摘したという事実は、管見の限りない、のだから。
2005年3月12日土曜日
『アラブが見た十字軍』
●アミン・マアルーフ[著]/牟田口義郎[著] ●ちくま学芸文庫 ●1500円+税
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。
十字軍とは、ローマ帝国崩壊後、中原ヨーロッパ世界の混乱を経て政治的安定期を迎えたゲルマン系諸族のアラブ侵略をいう。十字軍の中心勢力がゲルマン系のフランク族=フランク(王国)であったため、十字軍はアラブから「フランク」と呼ばれた。キリスト教に帰依したフランク王国はローマ教皇と共同でイスラムに奪われたキリスト教の聖地・エルサレムを「奪回」するため、当時地中海の覇権をアラブ勢力と争っていたベネチア、東ローマ帝国(アラブから「ルーム」と呼ばれた)と協力して、地中海沿岸エジプト、シリア、アラブ、トルコ(セルジュークトルコ)を侵略して植民地化し、エルサレム王国を建国する。
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。
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